モクジ

● even if rain1  ●




慣れない甘い香りが広がって、飛影は口を覆った。
「なんだこれは。」
態々大きなため息をついて、そのまま眉を寄せながら部屋へと歩き出す。
余りにも長く続く、お菓子独特の甘い香りにむせそうになる。

「機嫌が悪そうだな。」 覚えのある声がして振り向くと、時雨が立って
いた。

「なんだ、この臭いは「お主にかかればにおいになってしまうのか」」
少し笑って時雨が壁に寄り掛かる。

「バレンタインというイベントだ。女どもが、躯様に渡そうとして
はしゃいでいる。」 女が集まると、憧れの女にも渡すらしいと付け加える。
本当は固まって交わしている会話を、昨日聞きつけてしまった。

『飛影さまは何がお好きかしら』
『抜け駆けは許さないわよ。』 『わかっているわよ。』
はしゃぎながら牽制する、女独特の空気。それを感じて、時雨は その
廊下を静かに去っていった。
飛影目当てに、この要塞の女たちも、違う意味で怖くなったものだ…。
本人を前にそんな事情を言うわけにはいかず、しかし少しニヤついて
しまうのは 仕方がない。

この要塞の女たちは殺伐としていて、気の強いのばかりだったが
最近少し変わって きて面白い。 その元凶がこれでは、な…。

「バレンタイン…。」

飛影が繰り返すと、時雨は小さな声で訊いた。
「お主、何か貰ったことはないのか。」
「ああ…」飛影は少し考えているようだったが、数秒して、 「あ…」と、
瞳を少しだけ丸くして言った。 そう言えば去年…あいつから、貰った
ものがあった。
誰にも見られず、だれにもきっと知られることはないもの。

『この呪文…あなただけにあげるんですからね。』
悪戯っぽい目をして、あいつはそう言った。
今までに見たことがない、小さなこのような表情で。
『少しじっとしていて。』蔵馬はそう言うと、飛影の左腕に数秒口づけた。
そうして唇と離すと、くすっと笑った。
『これで、回復力が少し上がりますよ。疲れも取れやすくなるし、
今までより闘い やすくなる。』 バレンタインに、あなたの役に立つ
ものをね、と言っていた。

人間界の習慣など知らないが、とても甘いイベント…のような気がした。 「

時雨。」 去っていこうとする背中を呼び止めて、飛影は早口で問うた。


「バレンタインとは、何をするイベントだ。」
「ああ…。」 一瞬驚いた表情をして、考えているようだったが、
時雨は少しして答えた。
「好きなやつに、大げさではないプレゼントをするイベント…かな。」
告白をするやつもいるらしい、と付け加えた。
飛影は、そうか、と言ってすぐに消えた。



「ギャア!!」
数日後…飛影は、くそ、と言いたくなるようなパトロールに今日も
駆り出されていた。 そこで奇襲を受けた相手を一気に撃退する。
…この程度で。 軽く炎を出してすぐに帰路に就こうとし…て、足を
止めた。
乾いた空気の中に、ほんの少し混ざる、覚えのある
香り…、に少し似ている。そしてその人の近くに…漂う寒さに満ちた空気。
「飛影?」
同僚が呼び止める声を
制止して、飛影は走り出した。

この香り…今ある丘を登って、鼻に
力を入れて時折空を見る。 知っている。この香り。 この空の
かなたに続く世界にもある。


違う世界でため息をついているのは、
近いような遠いような存在の、その人だった。
「どうしよう…」

はしゃいでいる世界の空気に押されて、結局何も買えなかった。
バレンタインは近い。 だって今日、13日。 何もしないという
わけにはいかないイベント…でも、去年のような、甘く響くものが
何も浮かばない。
それに、ここ数週間残業が続いていて、帰るとすぐに眠りに
落ちてしまってそこに考えが及ぶ余裕がなかった。
珍しく早く終わることができた今日、空は雨模様だった。
突然に激しくなった雨に、肩を震わせる。
2月と言ってもまだ寒く夕方も過ぎて、風が体にしみる。 予報に
なかった雨に、一瞬立ち止まる。 自販機でカフェオレを買って、
心ばかりのぬくもりに浸ってみた。
「魔界は…」
寒いのかな。もう暫く行ってないし、こっちの感覚が染みついて
しまって、別の世界だ。
四季があるわけでもない、きっと風の荒れ狂う中であのひとは
走っているんだろう。
「そりゃあ、寒いだろ。」

「…!」 不意に答えが返ってきて、ハッとした。
「幽助…。」
「ちょっと用事あってこの辺にいたんだよ。そしたらお前が
いたから。」
近づいた幽助は、温かい瞳をしていた。温度が上がった気がしたほど…。
「あ…」
傘がないのを気遣って入れてくれている…。

「こっちだって寒いんだから、あっちはもっと寒いだろ。」
なに、お兄さんにあっためてほしい?
「え、いや…そんなわけっ…「いつでも貸してやるよ。」」


蔵馬の答えを聞かずに続けて、幽助は至近距離まで来た。
「借りたいときは言いなさい。」


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