モクジ

  欠片の星  



小さな雨粒が、落ちていた。
「わっ…」
小さく呟いて、幽助は空を見た。夕方の、駅を出た瞬間のこと。
髪を濡らす雫に、ハッとして、そして信号を見たそのとき。
「あ…」
向かいの道に、その人を見たのだ。
幽助には気付かず、隣の男…同級生の海藤と喋りながら、笑い合いながら
歩いている長い黒髪の…蔵馬。濃い青に染まった空が、蔵馬の長い髪を照らした。
「くら…」
呼ぼうとして、幽助は足を進めることが出来なかった。


今、呼んでどうする。
何を言えば良い。
もう、甘い時間を共有できる仲ではないのだ。



告白をしたのは蔵馬からで、それは武術会が終わった瞬間だった。
「幽助…あのね」
勝ってよかったと、そっと背中越しに指を重ねてきた。
「ずっと、好きだったんだ」
嘘じゃないよなと、思った。蔵馬を見ていたのは幽助で、それは蔵馬も同じだとは
思っていなかったから。
「幽助が、生きていて嬉しい…」
「何言って…」
心配したのは同じだよ、と抱きしめた。
鴉の攻撃で血に染まる蔵馬を、見ていたくなかったのだ。ずっと、蔵馬と呼んでいた。









蔵馬を初めて抱いたとき、蔵馬は小さく笑っていた。
何度も、好きだよと言った。
「好き…」
蔵馬はそう言って、何ヶ月も前、幽助の腕にその白い指を絡ませたのだ。
幽助の中、夜のとばりが降りて今二人が動く音だけが、響いていた。
白い肌を見せて、蔵馬は言ったのだ。
「ずっと好きだったよ」
言う蔵馬の瞳が甘くて、幽助は指を重ねた。そうすると、蔵馬は小さく笑った。
「幽助…」
出会えて良かった。
蔵馬は言うと、唇を重ねたのだ。
「あっ…」
中に入ると、蔵馬は甘い声を出した。痛みを感じているはずなのに、それは
声には出さない。
「大丈夫…きて…」
もっと、感じたい。
蔵馬は足を開いた。
「蔵馬、俺も…好きだ」
ぐいと、腰を進めた。
「ああ…!」
高い声が響いた。ずっと、ずっと聞いていたい。ずっと溺れていたい。
そう思った。


「お待たせ!」
待ち合わせちょうどの時間、蔵馬は駅前で待っている幽助の前に、花がほころぶ
ような笑顔で現れた。冬の終わり、一瞬春風が舞ったような気がしたくらい。
「行こう」
映画のチケットを抱きしめて、蔵馬は手を繋いできた。

「面白かったね!」
そう言って、帰りの喫茶店ではパフェを食べながら幽助を見て、くるくると
瞳を転がした。


「幽助、似合う!」
街の雑貨屋で、気まぐれに試してみたキャップを、蔵馬は楽しそうに幽助に載せて
鏡ではしゃいでいた。

「おいしいか?」
「うん!最高、ありがとう!」
幽助の屋台で、蔵馬は湯気を立ててゆっくりと麺をすすっていた。
仕事帰りの蔵馬は疲れた顔をしていて、けれどこのラーメンの香りでは暖まると
楽しげになっていた。


いつからだろう。
街で二人で歩いているときに聞こえる声が、頭から離れなくなった。


『きれいなやつだな』
『あれ、浦飯だろう?』
『あんなにきれいなやつと一緒に居るのか?』
『勿体ないよな』
1度だけではなかった。蔵馬を見る男の目が、ずっと離れなくなった。
繁華街を歩いていても、知らない男が蔵馬をつけているのが分かった。
くっそ…
思いながらも、隣で笑う蔵馬に何も言うことが出来なかった。

そして、夏休みに蔵馬が黄泉のところに行ってから、噂が耳に入るようになった。
『妖狐蔵馬は、黄泉の昔の仲間』
なかま…?
幽助の知らない蔵馬のことを、知っているやつがいる。しかも今は蔵馬を呼び
寄せることが出来るほどの立場の男。
魔界の空を、何度も見上げた、雲の隙間から、蔵馬の笑顔が浮かんでくるようで。
『蔵馬…』
呼べば消えてく。
眠れば、抱きついてくる蔵馬の肌の感触が蘇る。
『俺のこと…忘れるなよ』
何度も、幽助は国の中で、そう言っていた。蔵馬が、今幽助を思い起こしている
のかも分からない。
昔の仲間のところに居る蔵馬が、今どうしているのか。離したくなかった。
魔界に来た日のことを思い起これば、蔵馬に会いたくなる。




だから、人間界に帰った頃、蔵馬の全てが離したくなかった。



それは、ただの気まぐれで…大きな意味はなかったのだけど。


「またな!」
授業が終わって帰る、盟王高校の校門の前…。その柱の裏に、幽助がいた。
はしゃぎながら女子が帰るその後ろに…そのひとがいた。


『じゃあ、失礼します』
『文化祭のこの資料よろしくな!』
先輩に頭を下げて、本を抱えて歩くそのひとは…幽助が知らない表情をしていた。
武術会の頃とも違う、幻海師範と話しているときとも違う、蔵馬の秀一の…表情。
胸が、避けるように高鳴るのを感じたのは、初めてだった。


その夜、幽助は蔵馬に何も言わせずに抱いた。
「んっ!…」
荒々しくのしかかる幽助に、ビクンとして蔵馬は何かを言おうとした。
けれどそれは許さず口を塞いだ。
「ん…!」
幽助をどかそうともがく蔵馬を押さえ込むと、ほぐすように蔵馬の足の間を
かき回した。
「ふっ…ぁん!」
尻を撫でて中心をかき回す幽助に、蔵馬は逃げようと腰を浮かせたが、それを
許すはずがなかった。
ただ、勢いのままに幽助は自身をねじ込んだ。


「あっ…」
蔵馬のなかに吐き出した瞬間、見えたのは涙だった。
白い頬にゆっくり伝う雫…。
獣のようだった光が潜まり、幽助は蔵馬を見た。
「蔵馬…だ、大丈夫か」
今更で、何を言って分からなかった。


けれど、1度見たその表情は消えなかった。
穏やかに、幽助に向ける眼差しとも違う、仲間と居るときとも違う瞳をして…。
幽助とはしない会話をしていた。
「くっそ!」
小石を蹴っても、それはほんの数本分しか飛ばなかった。
「くそ!」


仕込みをしながら、それでも頭の中に消えないのは蔵馬の表情だった。
武術会の時の、相手を真っ直ぐ見据える瞳…初めて出会ったときの迷いの
ない眼差し。

全部全部幽助が見てきた。
隣で、蔵馬に変化を全て見てきたと思っていた。
なのに…。


蔵馬の一部でしかない世界で、蔵馬は幽助の知らない表情をしている。


『きょう何時に帰るの?』
蔵馬にそればかりを聞くようになったのは、それから少ししてからだった。
試験前だからと言う蔵馬に、『お前ならそのくらいわかるだろ、学校の勉強なんか』
と言ったのは幽助だった。
『だから、帰ったら家に来いよ』


「やめ、て!」
まだ夕方の時刻…幽助の家に着いた蔵馬を、抱き上げてベッドに投げ出したのは
幽助だった。
蔵馬の制服を剥ぐと、その白い肌を舐め回した。もがく蔵馬の腕を押さえて、
「好きなら黙れ」
と言った。


毎日、『何時に帰るの?』とだけ打っていた。
『帰ったらうちにこいよ』


それでも、休日に外出をするときは幽助は蔵馬に笑いかけていた。
「これ、好きだろう?」
「うん」
パフェを突きながら小さく笑う蔵馬を見て満足そうにしていたのは幽助だった。
「おまえ、これ似合う」
「もうっ!」
ピンキーリングを嵌めると、女の子みたいじゃない、と蔵馬は拗ねたように
首を振った。
「でも、似合うなら良いかな…」
はにかむ蔵馬は、日に溶けるようだった。

『先輩!』
それは、蔵馬とあるショッピングモールに行ったときのことだった。
喫茶店から出てきた二人に、声を掛けてきた男がいた。
「あ…」
蔵馬の方を見て寄ってくるのは…蔵馬と同じ制服の…。
「先輩!この間はありがとうございました」
「う、うん…」
蔵馬は、チラッと幽助を見た。小さく揺らいだ、幽助の空気…。穏やかだった
風が荒いものになったような、そんな感じ。
「放課後まで残ってくださって、わかりやすかったです。ありがとう
ございました」
息を吐いて、彼は頭を下げた。
笑って手を振る蔵馬は、黙って一瞬だけ幽助を見た。幽助は、ただ小さく
笑いを返した。



『今日どこ行ったの?』
今日は帰りが遅くなるからと、幽助に連絡が来ると、幽助はいつもそう返した。
『誰と会ったの?…何人で?』
『嘘吐いていないよな?』
毎日、朝は、どこにも寄らずに学校へ行ったのか確認してと送った。

「幽助…」
喫茶店に入っても、蔵馬は段々喋らなくなった。
「今日の映画面白かったな?こことか…」
パンフレットを広げて言う幽助に、うんとだけ頷いた。


「んっ…」
嫌だ、と蔵馬の声が小さく響いた。湯気の中…。風呂の中で、蔵馬は
鏡の前で足を開いていた。
弟と二人で出かけた…幽助に言わずに。
すっかり忘れていて出かけたことを、幽助に知られてしまった。
「やめ…」
鏡の前で、見ろよと幽助が言った。蔵馬の足を、後ろから抱えながら
ニヤニヤと笑いながら。そして、あぐらを掻いた幽助の上に、蔵馬の
腰を落とした。
「ああ!」
苦しみに、蔵馬は首を振った。涙が飛び散るそれさえ、きれいだった。


「お前、弟と一緒に寝たりしてないだろうな?」
幽助は何度もそれを聞いた。
そんなわけないじゃないというと、何度も幽助は聞いた。
『いまどこ?』
平日の帰り、何度も連絡が来るのだった。
『学校終わったら、家以外に行くなよ』
『俺今日から魔界に行くから、帰るとき呼ぶから迎えに来て』
『俺が魔界に行ってる間も連絡入れるから電話には出て』
着信に出ないと、何度も繰り返しコールが来た。
昼休みも、電話してくれと言われて‥そして幽助からかかるようになった。



「幽助…」
蔵馬から呼び出されたのは、初めてだった。
夕刻の河原の水が、ゆっくりと流れた。
「もう、終わりにしよう」
泣きそうな瞳だった。ただ、それだけを言って、蔵馬は、幽助を見た。
一瞬も逸らさず、ただ幽助に視線を向けた。
「もう、無理だよ」
初めて会ったときから、偽りなく気持ちを伝える幽助が好きだった。
ずっとそばで心配をしてくれて、そしていつも、無理するなと笑ってくれた。
幽助が好きだった。
けれどあの気持ちに、今は戻れない。


ごめんねと、蔵馬は言った。




それから数ヶ月…。

終わった気持ちを追いかける…力は出なくて、幽助はただ時が過ぎる感覚を
追っていた。

だから、その黒髪を見たときに動いたのは、気持ちよりもからだだった。
「蔵…」
言おうとして、追いかけることが出来なかった。
はしゃぐように笑いながら海藤と歩く姿…肩を掴んで、今でも好きだと、
唇を奪ってそして…。
そして、もういちど…。
も1度…?なにを?
何が出来るか、分からなかった。
終わりを、認めるほどの大人になれなかった。触れた肌の柔らかさも、甘い吐息も
なくしたくなかった。
「く…」
ハッと信号に気付くと、蔵馬の姿がなかった。








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