Red irreplaceable

花の香りを纏いしは

ふ、と飛影は空を見上げた。

明るい光を照らす太陽が遠く見えた。
けれどその腕を少し伸ばせば、凍える空気が全てを包んでいる。

そして小さく首を傾け、膝の上のその人を見つめた。
緩く。

震えそうな空の下、そのひとの髪を、飛影は撫でていた。
魔界の冷たい空の、昼の太陽が、二人を遠く照らす。
荒涼とした世界の端の森で、樹に背を凭れながら、黒髪を撫でていた手には力を入れず、
ただそうっとそうっと…。

両手を膝に重ねて眠るその人を見つめる自分の瞳が、今は冷たさを湛えていないことを
自覚していた。

「初めて、だな」
こんな風に人を温めたいと思ったことさえも、初めてだった。
飛影の周りだけが、春の温もりのように暖かい。
それは冬という季節を忘れ去れるほどの…たった一人だけに許される、
指先から滲む感情の証し。

力を入れず指先だけが髪の先をいじり、太陽を見上げた。

木々のさざめきの間に、鳥が飛び回る声が聞こえた。
眩しそうに飛影がそれを見た。

目を遠くに見やれば、白い花が、一輪咲いていた。

「良い、香りだな」
不似合いなことを言っている自分も、今は自己嫌悪ではない。
昔ならこんなことを口にすることすらなかった。
隠しようのない甘い感覚が、飛影を包んでいた。

膝に眠るそのひとをふっと笑い見つめた。

「くら、ま」
溶けそうな甘い声が、一瞬沸いた。

遠く、それを見つめた視線が一つ。

樹からはほど遠い、森の端から数秒…飛影がそこに向き合った。

鋭い瞳を向け…そして飛影は、そちらから逸らした。

風が一瞬待っただけの間、無言で二人は見つめ合った。

サワサワという、冬の風が肌を刺し、相手はそこから動かなかった。

飛影も何も言わず…怒りでも喜びでもなく、それなのに拒絶でこそない、
ただ、鋭さを押さえ込んだ瞳が相手を射貫く。

膝の上のそのひとを、腰に引き寄せ、飛影が口の端を上げた。
遠く、ふたりを見つめた瞳と交わった。

冷たくも暖かくもなく、そこから離れようとはしない相手を飛影がクッと笑った。

飛影よりも蔵馬よりも大きなその人は、黙って二人を交互に見た。
飛影の前進を辿るように見つめ、そしてその視線を、膝の上の蔵馬に移していく…。
ゆっくりと、無言のまま、飛影の膝に眠る白い頬を見て、そして僅かに肩を揺らした。
飛影は、何も言わなかった。

ただ相手を見つめ、そして蔵馬の神を一房取った。
ふわりと飛影の指で黒髪が落ちた。
落ちた髪が、蔵馬の頬に流れた瞬間、相手は背を向けた。

「時雨」
太陽の光がそのひとの頬を照らした。

「…ただの、偶然だ」

遠く、時雨はそれだけを口にした。

いつから見ていたのか、そんなことを訊くこともせず、僅かに振り向いた時雨を飛影が見つめていた。
細い浮かんでいる感情が何か、浮かんでは消える瞳の奥の色を、飛影がじっと見つめていく。

「…その花が、綺麗だな」

飛影は、息を落とした、何も言わず、そしてもう一度蔵馬の頬を撫でた。

「…そうだな」

口の端をあげ、飛影が小さく笑っていた。

「…離すなよ」

そして時雨は、何も…声も残さず去った。




飛影が笑い、視線の主はゆっくり背を向けた。
「いいものを、見つけたな。邪眼師」
声を、飛影が拾えはしない大きさで呟いた。 

凍えるような空の下、飛影の周りだけが暖かかった。それを、離れていても感じる。
ザッと歩を進めると、魔界の冬の気圧が時雨の肩を襲った。

明るい太陽が照っていても季節は凍える冬の中、あの腕の周りだけがやけに暖かかかった。

しなやかな腕が、あの小さな黒髪の人を撫でるときだけ光を宿していた。



「ひとりではないと言うのは、幸せなことだ」

遠い記憶にある幼かった邪眼師が、いまそこで確かな温もりを手にしている。

時雨が、ゆっくりと歩き出した。

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