翠 雨 -sui u-




翠 雨 -sui u-U 






いつ来ても緊張する…もう何度も来ているのに。
蔵馬はそう思った。百足の廊下はとても長く、そして、自分の靴音だけが
響いているので、必要以上に神経が張り詰める。
それに…。
それにここは蔵馬のテリトリーではない。侵略して良い場所でもない。
入れて貰っている、と言う感覚に近い。
決して豪奢に飾り立てているわけでもない、けれど品のある、
薄いベージュとか落差模様の
廊下が、主の格を示しているようで、畏怖の念を抱いてしまう。

飛影の部屋は奥にある。そこにたどり着くまで、この要塞の人と
すれ違うのだが、それが
蔵馬は余り得意ではなかった。
ふわふわの髪の美人や、クールな美人…ここの女は皆美しい。
そしてチラチラと自分を見る眼差しに、暖かさが無い気がして、いつも
唾を飲みながら、早足に
なってしまう。

今日もこうしてドキドキして進んでいるのだが……
「ちょっと、あなた」
飛影の部屋の手前で、鋭い声に、歩を止めた。
背を、冷たい汗が流れる。同時に、突き刺さるような視線を感じる。
「あの、何か?」
冷静を装って、近づいてきた女性を見る。細い瞳が、蔵馬を見る。流し目に
近い、色気のある瞳。
「飛影殿のお部屋に用、おありなの?」
「あ、はい…」
「ふう、ん…」
ちら、と女性は、蔵馬の持っている小さな袋を見つめて、蔵馬と
その袋を交互に見た。

「飛影様はあと1時間ほど、戻りませんけど?」
「ええ、だから中で待たせて頂こうと思って」
自然、早口になってしまう。早く、この会話を終わらせたい。
早く中に入ろうと、すっと横切ろうとした蔵馬を、白い手が遮った。
「お待ちください。今日は飛影様には会えませんよ」
部屋の扉の直前で、しなやかで白い手が冷たく遮る。
「それはどう言う…?今日何かあるんですか?」
「今日がどう言う日か、ご存じですの?」
蔵馬よりも少し高い目線で、彼女は蔵馬を壁際に追い詰めて言う。
いつの間にか、飛影の部屋の入り口の壁で、蔵馬は背を預ける
形になっていた。


「今日は女性のイベントの日ですのよ?あなた、この要塞の女性では
ないのでしょう」
嘲るように言うと、蔵馬の頤を取った。
「え……」
「女性でもない方が、今日のイベントのために飛影様のお部屋に
入ろうだなんて図々しいわ」

バサっ…と、蔵馬の袋がもぎ取られた。
言葉に押されて固まっていた蔵馬は、反応が遅れた。
汚れ一つ無い床に落ちた袋が、グシャグシャ、と潰される音が響いた。
「あ…!」
「お引き取り遊ばせ」

そこからは何を言ったか、覚えて居ない。
只廊下を走って、誰かにぶつかった気もしたけれど…そのままとにかく
走って帰ってきた。
ベッドに身体を預けて、瞳を閉じた。

飛影、もう部屋に戻っているのかな。
俺が来たこと…躯に聞いたのかな。
繰り返しそれを考える。
そして、あの言葉が蘇ってきた。
「今日は女性のイベントの日で…
 今日は女性のイベントの日


ああ、もう考えたくない。義理チョコだけを振りまいて、バレンタインは
終わってしまった。

頬を、冷たい雫が流れた。



数時間後。
「ひ、えい…」
ふわふわと夢の中を彷徨いながら、蔵馬の口から小さな声が漏れた。
誰にも聞こえないはずの声だったのだが…。
冷たい風が窓から吹き込んで、
「…ま。…ま。おい」
低い声が聞こえた。
「ん…ひ…「こら、目を覚ませ…ったく」
誰?と思いながらゆっくりと瞳を開けていると…焦れたのか、その誰か
が自分の肩を… 揺さぶっているのが分かった。
ぐらぐら、と蔵馬の黒髪の揺れる肩を、何度も揺さぶる。
「誰…?…っ!」
何度かそれを繰り返して居ると、漸く覚醒した蔵馬が、現実を
受け止めて固まった。
目の前にいる誰かが、信じられなくて。


「飛影―!?」

魔界に行った服のまま、身体を起こして蔵馬は何度も瞬きをする。
「どうして…。百足にいたんじゃ…」
窓から覗く空の色は、あかね色になっていて、美しい絵画のようだった。
夕方の空の、煌めき。


「お前が来たって聞いた」
「あ、そう、なんだ…」
何故自分が行ったのかを説明できず、蔵馬は黙り込んだ。
「躯に聞いたぞ。」
びく、と蔵馬の肩が揺れた。
何を?…躯はどこまで知っているんだろう…?
「俺の分は、無いのか。」
「あ、あの…あったんだけど…落としてしまって…」
俯いて、蔵馬がそれだけを言った。喉の奥が乾いて堪らない気がして、
怖かった。
飛影を見るのが。

「そうか…。」
小さく、飛影がそう言った。それが、却って心地悪くて、
いたずらに指がシーツを彷徨う。
「まあ、それならそれで…」
「え…?」
雷が降ってくると思って居た蔵馬は、やけに冷静な飛影に目を見開いた。
「毎年貰ってばかりだったからな」
「…??」
目の前に固まっている蔵馬の右手に、そうっと何かが握らされた。


それは、龍の刻印で有名な、魔界の中でもとても美味しいと評判の
チョコレートの店。
人間界で言う、ショコラティエに近い感じの店だ。
包み紙に龍の絵が書いてあることで有名で、色が豊富なので、
一つ一つ雰囲気が違う
と言うので人気だった。
「たまには、俺からもと思って…っ…蔵馬?」
突然、目の前が白くなった。
今度は、飛影が固まった。


蔵馬が、飛影に抱きついていた。
「ありがと…う。…飛影」


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