濁った夢 12



ふわりと、白い腕が飛影に絡む。
「この香り―――知ってる?」
蔵馬の首筋から、甘い香りがした。金木犀の香りに似ている。
「何だ。」
「あなたにも香りがつくようにね…。」
そうしたら、女が寄ってこないと思うから…。
口には出さない蔵馬の想いがくすぐったかった。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


「くそ!」
剣を投げつけて、飛影は舌打ちをした。
蔵馬に会ってから暫く、部屋に帰ると嫌な記憶が蘇る。

「蔵馬…」
受け止めきれず、甘い記憶だけを追いかける両手が嫌だった。
あの絡んでくる白い腕と、自分が最後に会った蔵馬は同じなのだろうか。
『飛影…』
縋るような声が蘇る。
苛立ちを隠せない飛影は、同じ百足の奴らとも殆ど口を聞かない
数日を過ごしていた。

ただ気を抜くと、蔵馬の声が蘇る。
「なぜ…」
知りたくない。知りたい。



ドサっと、ベッドの上に身体を投げ出したとき、コンコンと音がした。
「何だ。」
気配で相手は分かった。


「入るぞ。」
時雨だった。
「やさぐれているな。」
わざとらしくため息をついて、時雨が勝手にベッドの端に腰掛ける。
「パトロールは最近少ないからおぬしも暇であろう。」
「下らない仕事が増えなくて結構だ。」
むずむずした感覚で.時雨の言葉に返す。
「しかし躯様から伝達だ。…東の江香の森のパトロールだと言う事だ。」
「ちっ…いつからだ。」
ちらりとも、飛影は時雨を見ようとしない。
「伝達が済んだならもう帰れ。」
「いや、それだけではなく……護るもののために腕を磨くのは
止めたのか。」

一瞬。飛影の空気がぴりっと凍った。
「それとももう別れたのか。」

重ねて問いかける時雨を、飛影が睨むように見つめた。
「煩い…何が言いたい?」
火花を散らすでもなく、心地の悪い沈黙が数秒流れた。
「…率直に言おう…蔵馬殿のことだが…。」
時雨の声が、一段低くなった。

「何だと言うんだ。」
飛影の声が粗くなる。しかし、時雨は分かって居たというように
笑うと、言葉を続けた。


「蔵馬殿が、自分から氷泪石を手放すと思うか?」
やけにゆっくりとした口調に、トゲが光っていた飛影の空気が揺らぐ。
「…。」
「百足に来るとき、蔵馬殿はあれ程大事にあの石を持っていた
ではないか。」
一歩、飛影に近づく。一瞬、蔵馬が甘えるときのような距離で飛影が
心地悪そうに睨み付けた。
「何が言いたい…はっきりしろ。」
「よく聞け…蔵馬殿が無くしたわけではない…。」



時雨は唾を飲んだ。
上手く言葉が出なかった。
どうしたらいい。自分の言葉で語るには重く…躯に任せるには
余りにも大きい。


「あの石は…奪われたのだ。」
「何だと…?」
初めて、飛影は時雨を真っ直ぐに見つめた。


「そんなことが…あいつっ…」
飛影の空気が揺らいだ。それは怒りなのか哀しみなのか
解らないくらい、表現のしようのないものだった。

「東の江香の森の場所を地図で見ておけ。」
一言、それだけ時雨が言った。
ひらひらと、一枚の薄紙が投げられる。
地図を見た飛影の目が見開かれた。



・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


―――柔らかい―――
何かが自分を包んでいる感覚に、蔵馬はうっすらと目を開けた。
「あ…れ…」
白いベッドは、記憶にないくらい広く…ぼんやりと記憶を辿ってみる。
「あ…」
ここ…。百足…。
自分がどうなったのか、少しずつ思い出した。
「飛影―っ―――」
呼んでも応える者はなく、ただ自分の声だけが耳に響く。
「うっ―――」
腕に巻いてある包帯が、少し動くと疼く。
いつの間にか、ホテルのパジャマのような服を着せられていた。
「時雨…。」
多分そうだろう。あんなに穏やかに受け止めてくれた…。
ベッドのカバーを引いて、蔵馬は静かに、雫を流した。


「ありがとう…。」
でも…今の飛影はきっと、自分に会いたくないだろう。
傷はまだ疼くけど…でもこのままここにはいられない…。
ふとチェストを開いてみると、良いものがあった。
人間界の足袋に似た布がある。
これ…靴の代わりに出来る…。
ふらふらと、壁に手をついてキイ、と扉を開く。


「開いた…」
ゆっくりと、廊下を歩み出す。

飛影に会うのが怖くて、でも会いたかった。
救ってくれるかも…そう言う想いが溢れすぎて、上手く言葉が
出なかった。

でも…飛影は戸惑いの瞳を向けた。



百足の中は広く、同じような柱がずっと続いていた。
「っ…」
思ったよりも早く歩けない足が痛みを訴えてきた。
気付けば、包帯にも少し紅が滲んでいる。
頭がぼんやりして、しゃがみ込んだ。


「大丈夫か。」
聞こえて来た声に、ハッとして顔を上げると…
「しぐ…れ…」
「どうした。部屋に戻った方が良い。」
まだからだが…と言いかけて、蔵馬の腕を引っ張りかけた。
「やめて…っ…」
放して、と声を荒げる。
「助けてくれたこと、感謝しています…でももうここには…」
藻掻きながら走り出そうとする蔵馬を、時雨が渋い表情で見つめる。


「無理だ、そのからだと体力で、どこまで行ける。」
「―――!」


分かって居る…、そんなこと…。
「でもっ…放して!もう俺のことは忘れてください…」
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