濁った夢 8

夜空の果てに興味はない
泡になる前に 貫いてみたくなる
魔法に負けない強さで あなたを見つけて


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥



「…離してよ…!」
幽助ではない腕が、蔵馬を押さえつける。
幽助が一泊出張だから、と言って蔵馬に熱い口づけをして
出て行ったその夜、ギイっと開いた扉から侵入してきたそいつが、
蔵馬を押さえつけていた。




暗闇の中、瞳を凝らすと、覚えのある瞳が蔵馬を捉えた。


…幽助が蔵馬を押さえつけているときに、蔵馬にねじ込んだあの男だった。
男が蔵馬にのしかかると、ふわふわとしたベッドが揺らいだ。



ベビードールが腰までたくしあげられ、蔵馬の下半身を揉みしだく。
「やめて!…うっ「あんたを忘れられなかった」」
舌がねじ込まれ、無理矢理に蔵馬の口の中を彷徨う。逃げ惑う舌を捉え
ねちねちと絡め取る。


…きもち…
気持ち悪い…知らない人間の舌が彷徨う感触に、のど元をせり上げる
吐き気が襲う。
それでも屈するわけにはいかなかった。せり上げる者を気力で押し戻す。
ぼんやりしてくる視界が明るくならず、相手の熱さを秘めた瞳だけが
蔵馬の世界だった。



「はぁ…はぁ」
男は腰を振り始め、蔵馬の足を広げた。
「…ひっ…!」
生暖かい感触に、蔵馬が引きつった声を上げる。
ぬるぬるとした舌が蔵馬の中心を触れた。
「…ぁ…あ」
喉元に冷たい汗が流れ、何かに縋るように、両手が宙をさまよう。

「いっ…や!」

頬を伝うものをそのままに、辛うじて動かせる右腕を振り回し…


「うっ!」
一瞬して、男の呻きが聞こえた。
身体のどこをどうしたか分からない。
振り回して男の身体にあたり、壁に突き飛ばされていた。


「乱暴、しないで下さいよ…幽助さんだけのものなんて…」
立ち上がり、蔵馬を取られる瞳に熱さが宿り、それを見た瞬間、蔵馬は後ずさった。

普通じゃない。
普通の欲望ではない瞳をしている…。
肩紐がずり落ちたベビードールをそのままに男から目が離せずにいると…あるものが目に入った。



それは小さなハサミだった。
…なに…これ……
ざわつくものを感じて、今までとは違う警戒が背を這った。ぞわぞわする。
幽助とは違う狂気が見える。



「似ているんですよ…。」
小さな声だった。一歩一歩近づく度に瞳の熱が熱くなる。
「い…や…」
妙に、肌が熱くなり、嫌な感覚が蔵馬を包む…このままじゃ駄目だ…おかしい…。


隙を見つけなくては……この男は…おかしい…。
「あなた…あの女に似ているんですよ…。」
蔵馬を見ながら遠くを見て居る気もする。

うっとりと蔵馬の首筋を撫で、耳にかかる髪を梳く。
「あ―」
何故か動けなかった。暴力を振るわれているわけでもないのに、妙な力が、
男の目から発せられているようだった。
「離さない…」
吐息がかかる距離でそう言った瞬間…。



…!
蔵馬はハッとした。

空気を裂くような、ハサミの音がした。何をするでもなく、
ハサミの音だけを繰り返す。
「…うっ!」
蔵馬は固まっていた意識が動き出したのを感じた。



肩に掛かる髪を、押さえられていた。

…なっ…
「―――!」
余りにも予想外の音に、現実ではない感覚さえしてきた――。
―シャッ
「あっ―――」
目の前を散る黒髪の艶に、蔵馬の目が見開く。音が続いて、舞い散る黒髪を左手で追う。
「あなたに似ているんですよ――俺から離れていった女の子が。」
でもね――…。



「このくらいの髪だったんですよ、その子。あなたも、似合うと思うんですよね。」
くす、と笑ったとき、蔵馬の瞳が音のこの意識を組み立て始めた。

…その女の代わりに…

「あ…」
ふと目に入った、頑丈に閉じられた窓に映った自分の姿に、
言葉を無くした。
長かった髪が舞い、肩の辺りまで切られていた。



その瞬間、違う感覚が、蔵馬の足先から指先までを包んだ。

女の代わりにされるっ…!!

男を見つめる。
頬を撫でる手が異様に冷たく。
このまま首でも絞められるのではないかというくらい…。
ベッドに乗り込んできた男は、蔵馬を壁まで追い詰める。


「あなた、似ている…」
うっとりと眺めている男の手が、一瞬緩んだ。
蔵馬と至近距離でそう言う男の目が、曖昧に、蔵馬を見つめる。
ドクン…
その時、胸の奥から声がした。
―あ…

ほんの僅か、扉が開いているのが見えた。

涙で乾きそうな瞳を、もう一度凝らす。

…いま…だ…!


「んっ…!ん」
熱い唇を受けながら、もう一度男の力を感じて居た。
隙が…あるはず……

ぐい、と、数秒経って男が蔵馬の身体を抱き寄せた。



「っ…!」
そのとき、蔵馬は左足に力を入れた。
「あ、っぐ…!」
蔵馬を抱き込んでいた男が後ろに衝撃を感じて、数歩蔵馬から離れた。
「うっ、はぁ…!」
這うようにして、ベッドから床に身を泳がせて、蔵馬は扉を目指した。



ほんの僅か隙間がある、あの光を目指して、
この一瞬の隙を逃すわけにはいかない。


「どこへ…いくんですかっ―――」
後ろをさすりながら男が這ってくる。
今振り向いたらいけない。
もう一度誰かの目を見て凍り付く感覚に囚われてはいけない…。
そう、胸の奥から響いてくる。
それは、妖狐の声だったかもしれない。
振り向くな…、希望が無くてもここから離れる唯一の隙間だ…。


何度も幽助に突き上げられ力が入らなくなっている足と、緩い光にしか触れずにいた瞳は、
扉から差し込む光の眩しさに戸惑いしかなかったが…。

それでもこのままこの世界にいる訳にはいかない…。


はぁ…はぁ…
閉じ込められたときに妖気は底をついていて、ふらつきながら
それでも壁を伝い扉に近づく。
そのとき、ふと何かが目に入った。


幽助が、気まぐれに置いていったハイヒールだった。
これ履いてみろよ、と遊びで履かせて、女みたい、と言って笑っていたもの。
「あ…」
裸足で魔界を歩くよりは…、と、すっと足を通す―ズキっと
つま先に響いた。
「う…」
幽助の笑い声が頭に蘇ったが、振り切るように頭を振る。



目を閉じると涙がこぼれた。
それでも…唇を噛む。

その時…再び、蔵馬は身体が凍る感覚を感じた。足下に、
あの男の手が見えた。
「うっ…!」
「離れないで…下さいよ…」
羽交い締めにして、蔵馬の耳で囁く。
幽助の腕よりも、熱かった。
…い、や…!

ここで負けるわけにはいかない。
力の入らない腕で必死に藻掻きながら、蔵馬はほんの僅か、男を見た。



―――!
あった、と思った。

男が履いていたズボンのポケットに、小さなナイフが刺さっている。
全身が震え上がった。細胞が動き出したような感覚だった。
「ぐっ…!」
指先には、幽助から押さえつけられ続けた所為で余り力が入らなかった。
それでも…。
「今度こそそばにいてくれよ…!」
蔵馬の胸をなで回す男の意識が、蔵馬の腕から逸れた…。


―――いま…だ…
すうっと、ナイフに手をかけた。

一瞬の隙だった。


「あっ!ぐう!」
次の瞬間、蔵馬のものではない呻きが響いた。
男の右足に、斜めに切り傷が入っていた。

「離して!!」
正面から男を見てはいけない。今は前を見るようにしないと…。
胸の奥から響く声に突き動かされるように、勘のようなもので。

後ろにあるだろう男の足を続けて刺す。 「アッ!」
不意の傷に、男の声がした。

―――男の身体が離れたのを感じる。



「はぁっ…はあ…」
粗い意識を吐いて、腕からすり抜けるようにして這い出す。
幽助に陵辱され続けた腰や足が、痛みを訴えるが、ねじ伏せるしかない。

壁伝いに後数歩…。

キィ、と扉が開いた。
「ひらい…」
開いた…。



余り手入れのされて居なさそうな壁が長く続いている廊下が蔵馬を迎えた。
幸い、人が通って居る気配はなかった。

「待って…くださいよ…」
はっとして背が固まるのを感じた。

男の声が、少し後ろから聞こえてくる。

胸の奥から声がする。振り向くな。
後ろを、過去を見るな。今どうしたいかだけを見ろ。
振り向いちゃいけない…。
今度ははっきりと、妖狐の声が聞こえた。


ぎゅっと噛んだ唇と、止まらない雫を振り切るようにもう一度頭を振る。
そして…
「っ―――!」
呻きたいのを堪えて走り出した。

本当ならこう言うとき、幽助が笑って助けてくれると思うのに―。
大丈夫かって、ほらって、手をさしのべてくれるのに。
温かい手のひらを思い出す。
つま先が痛むのを感じるせいか、涙の所為か分からない。

ただ、体中が熱を帯びたように、張り詰めていた。




・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


「あっ―――はぁっ…」
何十分歩いただろう、はっきり感覚はないけれど、ただ瞳が
ぼうっとしてきていた。
幽助の要塞から出て、なるべく遠くにと思い、森を抜けて、覚えのない
道まで来てしまった。



魔界は広い、長く生きてきた自分でも、全ての土地の変化を覚えて居るわけではない。
自分がどこにいるか、一瞬考えないと把握できないが、今はその余裕がない。
熱い日差しを避けてくれるような 大木がある森に入ることが
出来て、幸いだった。
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