濁った夢 9

交錯

…百足…
涙で朧気になった視界に、遠くそれが見える。
ゆっくり進んでいる要塞は、ある一点で止まった。
そのままそこで止まるつもりかのかもしれない。


あそこにいる…。
外に出たら、幽助の要塞よりも冷たい風が肌を刺す。キャミソールが
あるだけ、まだマシだと思えた。
皮肉なことに、笑いが出てきてしまう。

「…う…っ…ふっ…」
出てきた笑いが悲しくて、唇が一層冷たく感じる。
部屋の中が暗くて気付かなかったけれど、魔界の外の空気よりは
暖かかったのだろう。
「ゆ…すけ…」
好きだった、飛影とは違うけれど、力を思い切り使って役に立つことも
厭わない存在だった。
それでも、今はその気持ちには戻れない。
ぎゅっと唇を噛みしめてゆっくり歩き出すしかない。




「はぁ…」

何十分経っただろう。近くに思えたけれど、それは百足が大きく
はっきり見えているだけで、
実際は結構距離があるようだった。
草が足を刺し、飛び出すときに咄嗟に履いたハイヒールが助けに
なってくれているようだった。
もし裸足で居たら、足を挫いて、今の何倍も少ない距離しか勧めなかっただろう。
魔界は雑草が多い。キャミソールがなければ、何度も擦ってしまった
足を傷つけるだけだったかもしれない。
「…あ…」
ほんの少しの距離でも気温が変わる魔界の中で、百足に近づくにつれ
風が氷のように思えてくる。


…さむ…
思わず両手で身体を抱きしめる。こう言うとき、飛影が暖めてくれたのに…。
幽助と揉み合ったせいで腕や足に出来たかすり傷が、キリっと響いてくる。
「…っ…」
座り込んでしまいたい…このまま眠ってしまいたい…。
一瞬そう思う。
…遠い…
前を進む足が重くなり、もう一度と思い、百足の方を見る。


…その時…



「…あっ」
思わず声がでた。
百足の上層階から見えた人…。



周りを監視するためか、百足の頂上から見えた人は、時雨だった。
「しぐれ…」
震えていた腕が緊張感を讃え、碧の瞳を見開いた。
…しぐれっ…!
妖気ではなく霊気に近い、精一杯の気を絞り出して時雨を見つめる。
遠くを見つめる時雨は、今ではとても遠い存在に感じられた。


―――お願い…気付いて…!



そうして何度、時雨を見つめただろう。
雑草が生い茂る道を抜け、いつの間にか覚えのある鉄の門を見つめていた。
「むか…で。」
いつもは飛影か躯が出迎えてくれる要塞を、初めてのときのような
ピリピリした感覚で見つめる。



あれだけ救いを求めて見つめていた要塞を、直に見つめると、
別の緊張感が走る。
そうっと、首筋を撫でてみる。

飛影が撫でてくれた髪も切られていることを感じると、透明な雫が
地面に落ちた。

会いたい…でも…。
一歩、後ずさったその時…


「蔵馬殿―――?」
覚えのある声に、離れ掛けた足が止まった。
「時雨…。」




それは、呼びかけ続けた相手だった。
穏やかな声で、時雨は蔵馬を見つめた。
「蔵馬殿?どうなされた。飛影に会いに…。」
言いかけて、もう一度蔵馬を凝視した。
「蔵馬殿…それは…」
蔵馬の髪のあたりで視線が止まる。一瞬、蔵馬の頬が赤く
染まり視線が逸らされた。




もう一度自分の耳を撫でると、いつも触れる髪が無く…地面を見つめる。
「それ…は…」
ゆっくりと時雨を見ては視線を逸らす…。
落ち着かない物を感じ、時雨は一歩、蔵馬に近づいた。


「とにかく中へ…飛影に会いに来たのであろう?」
寒いだろう、と蔵馬に自分の肩がけをかけようとするが…。

「…っ!」

咄嗟に、蔵馬はその手をはねつけていた。
パタ、と肩がけが地面に落ちる。
「蔵馬殿?」
向けられた不安定な視線に、時雨が蔵馬に近づいた。
これまでなかった違和感に気付く。
「ご、ごめんなさ…」
ハッとして笑う蔵馬は、ひきつっていた。
―――これは―――
時雨は思わず唾を飲んだ。
自分でも上手く表現出来ない暗いものが背を包む。
大丈夫だから、と言い、「中へ…」と言ってみると、
何も言わず蔵馬は着いてきた。
自分の体温と、蔵馬の体温は今違う、そんな気がした。





キイィ、と音がした。
音に反応したのか、蔵馬は少しだけ上を見上げた。
今までに聞いた音で、こんなに重い扉の音は初めてな気がした。
「ここで待っていろ。…飛影を呼んでくる。」

飛影、と言う言葉に、蔵馬の顔が時雨に向けられた。

「まっ―飛影には―――」
蔵馬はそう言いかけ…、しかし…。
「あ…」
時雨の姿は、もうなかった。




―飛影に―――
どくん、と心臓が早鐘のように打ち始めた。
百足の入り口は何度も通って居るはずだった。
けれどこんなに、違う世界のように思えたのは初めてだった。
そして、ツカツカと、覚えのある音がした。



「蔵馬殿、飛影を…。」
座り込みそうになった瞬間、時雨の声がした。

「蔵馬―――?」
明らかに動揺している声が、自分を射貫く。
どう言う瞳で飛影を見つめればいいか、分からなかった。
…どうしよう…
ガッと、ハイヒールを履いた靴が崩れた。


「蔵馬殿!」
つま先が赤くなっていた。
それをさする蔵馬の指をなぞったのは、蔵馬の知っている腕だった。
「飛影…」
「どうした、この靴と…」
しゃがみこんで見つめてくる視線に、困惑が伺える。
「髪…」


―――どうした―――
その低い声が胸の奥に響き渡る。
どうした―――。



自分は今目をそらしているはずなのに、覗き込まれているような感覚。
全ての記憶を覗き込まれそうで、今の自分の瞳も頬を伝うものも―――。

飛影の鋭い瞳で幽助の腕が押さえつける自分と、開かれた脚とあの
男の瞳が交錯する。



―――あ、の…。
それは…。
言葉が出なかった。

「それからお前…あのネックレスは…」
「―――!」
氷泪石のことだ。
目の前で散らばった珠を、どうやって伝えればいいのか、
頭が働かなかった。




蔵馬の足をさすっている飛影が、蔵馬から視線を逸らす。
「―――」
一筋、蔵馬の頬を伝うものを、時雨が上から見つめた。

「言えないのか。」
びくっと、蔵馬の瞳が震えた。



「あの、そうじゃなくて…」
「それなら、どうした。教えろ。」
若干速くなった声に、蔵馬の声が小さくなる。
「それ…は…」
どうした、と言う言葉に、あの場面が蘇る。
荒々しく押さえつける腕と荒い息だけが、今そこに
あるような気さえする。






腰を振る幽助が自分の中に突っ込んで流れ出る液体―。


はあ、と重いため息が聞こえ、蔵馬の背を冷たいものが走った。
「言えないのか。」
すっと、飛影の指が蔵馬から離れた。
「えっ…」
その声で、現実に還る。

そうじゃない。
そうじゃなくて、と言おうとして、しかし喉の奥がなぜか乾いて
言葉が出なかった。

「俺はもう部屋に帰る。俺はもう知らん。」
バサッと、黒衣を翻す音が聞こえた。



「…まっ―――!」
まって、待ってそうじゃない。
言おうとして、走ろうとした。
けれど膝が痛みを訴えて動けなかった。



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