allargando allargando

そっと、白い指がそこに…耳たぶに触れた、小さく光るものを、熱く握って。
「飛影……」
来てくれたんだ。窓の外…遠く広がる空が、一瞬だけ赤に染まったそれを、蔵馬は
見逃さなかった。見逃すはずがない。
「飛影」
うっすら浮かんだ笑いを、つい自覚した。頬が紅に染まっていることも、自覚して
いたけれどその感覚に甘さに浸る自分も嫌ではない。
一瞬だけ赤に染まった空…それに呼応するように、蔵馬の耳たぶが光っていた。
その光も、一瞬だけのこと。

もう片方の耳たぶを、蔵馬は触れて見た。
青いピアス…。
赤いピアス、それを、鏡に映す瞬間が好きだ。
「俺は……」
耳たぶが熱くうねるような熱を伝える度、飛影の眼差しが浮かんでいて……。
果てなく広がる空は、赤く染まりその瞬間光るピアスが、愛しかった。

空を越えながら、飛影のピアスも燃えるように光っていた。
…蔵馬……
思えば思うほど胸も高まっていく。
耳たぶに触れたのは、飛影の方も同じだった。飛影の耳に光る赤と青のピアス。
その煌めきを、満足げに触れて見た。
こんなにも、恋が熱いものだと…知らなかった。
今更そう思う。今なら、この気持ちが恋だとはっきりと言える。

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥……‥



魂の半分は、自分ではないどこかにあるという。
「下らない」
そう言って、飛影は魔界の地を蹴ったのだ。…自分はそんなセンチメンタルな
感情に流されない。そう思った。妹を探す、その意味などはっきりは分からな
かった。
ただ、何も感じないこの大地を見るだけの日々が、嫌だった。




蔵馬…その名を、どこかで魔界で昔…聞いた気がしたけれど。
まだ幼い人間の姿を留めて、蔵馬、そいつは飛影に何もしなかった。 初めて会ったとき…殺されてもおかしくない状況で…蔵馬、そいつは飛影に何もしなかった。

意識がないうちには何をされても運命だと、それは飛影でもわかっていた。

けれど蔵馬…そいつは何もしなかった。

ユキナ、その言葉を発した瞬間に、飛影は睨み付けていたのだが。
それでも、忘れられないひとだった。
何故だろう…今までは…殺すか生かすかしかなかった、他人という存在。

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥
一瞬航路が交わっただけの、それだけのひとを、何故か忘れられなかった。


そして今。自分は何も出来ない。


その瞬間を……思いだして飛影はくそっと呟いた。
凍矢が蔵馬に向かっていった瞬間を。

「うっ……」
部屋の奥から、うめき声が聞こえていた。あ、と言う声が続いていた。
かさっと言う小さな音にも、飛影は耳を澄ましていた。
部屋の奥から聞こえる、蔵馬の…自分の身体を抱きしめるときの、服が擦れる音。


離れられない。
奥から聞こえる、小さな吐息でさえ、聞き漏らせない。

そこから去ることが出来なかった。


「あっ……」
ガクンと、蔵馬の膝が折れてしゃがみ込んだのと、扉を開いたのは同時だった。


「どけっ……! 」
蔵馬の腕を掴もうと、手を伸ばしたはずだった。

けれど、その手が届く前に音がした。
パンッと…。


「やめて!大丈夫だから」

悲鳴のように、蔵馬は声を荒げていた。


大丈夫?
飛影の眉が、潜められていた。そんなこと、何を根拠に言っているのか、ここまで愚かだと思わなかった。

凍矢から受けた傷は深く、今の蔵馬の身体も力も奪っていた。

次第に力を失っていく腕…。青白く染まっていく頬が、全てを物語っていた。
白い、蔵馬の腕を突き破るそれを、息を潜めて蔵馬は枯らそうと藻掻いて…少なくとも飛影にはそう見えた。


「俺が、どうにかしてやる」
「やめて」
キッと、睨んだのは蔵馬だった。
伸びた飛影の手を叩いていた。
蔵馬は今にもまた閉じそうな瞳をしているくせに、飛影を拒んだ。


こんなに荒い息をしているくせに、蔵馬は飛影の手を取ろうとはしなかった。
「俺の問題だから」
吐いた息で肩が上下した。破れた服からのぞける白さが、痛々しさだけを伴っていた。
飛影は、それを一瞬だけ見た。
「どうするつもりだ」
「大丈夫だからっ……」
あなたの手は借りたくない、蔵馬は、しゃがみ込んだ飛影を押し返していた。

くそっと、飛影は何度も呟いた。扉の向こうで、何度もうめき声が聞こえていた。
背を扉に預け、飛影は腕を組むしかなかった。
「蔵馬……」



「蔵馬っ」
叫び声が、聞こえた。幽助の声だった。
鴉が手を上げる度、倒れていく蔵馬のからだが見えた。首筋を、冷たい汗が流れた。
蔵馬の瞳が、一瞬だけ飛影を見た……気がした。まさかと思いたかった。
それはなぜか胸の奥から迫り上げる熱さへと変わっていた。無くすかもしれない。
初めて、そう思った。長いまつげが伏せられ、蔵馬のからだが闘技場に倒れ込んだ。
「蔵馬あああ! 」
叫び声が、会場全体に響いていた。幽助の声だった。蔵馬、蔵馬と嘆きのような声が飛影にも聞こえた。
俺は…なにをしている。
奥から…胸の奥から声がした。どくんと、心臓が跳ねるような音がした。
なにをしている。
鴉と対峙した蔵馬が一瞬だけ見た瞳、その奥に秘めているものは何だったのか。
乾いた空気の中、唇だけがやけに熱を帯びて見えたのは幻だったのか。そう思えば
思うほど、蔵馬が遠く思えた。消えそうな息まで、今ははっきり感じられた。


倒れそうになりながら、けれど僅かに蔵馬は飛影を見ていた。



「蔵馬選手!ダウン…」 拷問のような声が聞こえた。

走り出しそうな衝動を…足を踏みしめて堪えるしかなかった。
蔵馬、蔵馬と今叫びたかった。

消える…予感がした。
けれど…凍ったような鼓動が、小さな音に跳ねた。
倒れ込んだピクンと…蔵馬の指先が動いた。

br> 「…い……」
ぴくんと、そのひとの指先が、這うように動いていた。
はっきりと、飛影は蔵馬を見た。

蔵馬の弱く開いた瞳が、飛影を探すように彷徨っていた。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥

「俺が、どうにかしてやる」
飛影に、そう言われたときに弾むような甘い気持ちが押し上がってきた。
本当は…凍矢の傷を、飛影がなぞったときに、身を委ねてしまいたかった。
けれど出来なかった。全てを飛影に預けて、その力を奪うことは出来ない。
甘えを享受できる状況ではないし……飛影を犠牲にしたいとは思わなかった。
拒絶は、蔵馬の美学でしかなかった。独りよがり。
それでも、扉の向こうに気配を感じた。妖気ではなく、飛影を感じることが
蔵馬の癖になっていた。
《ユキナ》その言葉を初めて聴いたあのときから……。ユキナ、何度も呼ぶ
声に苦しかった。
飛影を、犠牲には出来なかった。
それでも、視線は濁流のような想いに逆らえなかった。血が流れる度、鴉の微笑みを間近で感じる度、飛影と叫びたく
なっていた。
浅ましいほど、切なく蔵馬は飛影を見た。拒むくせに、見つめて欲しい。
欲しいけれど、拒まれたくない。



・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥

だから、思わず飛影は言っていた。


言霊を割った蔵馬の直ぐ傍で……今はもう、人の声が遠くにしか響いていなかった。
蔵馬は飛影と言霊を、交互に見た。
その蔵馬の瞳に映る感情が分からなかった。
自分の知る蔵馬はこんな表情を…していただろうかと飛影は少し思った。
真っ直ぐに言霊を見て…飛影を見た。
けれど、どんな感情が蔵馬を取り巻いているのか今の飛影には掴めなかったのだ。

「昔の知り合い」
蔵馬は、そう言った。
声に何の意味も含まれていないような…それが、無性に神経に来た。

その事に触れるなと言う意味か、蔵馬は心を閉ざすように、飛影を見なかった。


そんなこと、あるわけがないと、またどこかから声がした。
蔵馬の感情は…全て見てきたはずだ。
何を怖がっている。
蔵馬の白い頬は何の色もなく、声も何の色もない…けれど怖がっている…そう見えた。


探り当てたいと、胸の奥からズズッと込み上げる感情を、飛影はまだ知らなかった。
ただ、ただ……知らない過去を蔵馬が抱いている。そのことだけは確かで。

《そんなはずはない》

知らない過去を…知らない場所に蔵馬が乗り込んでいく。
遠くない未来、それだけが二人の間に漂う事実だった。
飛影も、感情を殺したはずだった。
「昔の男に会いに行くのか」
けれど発した声は、飛影が抑え込んだ感情よりもずっと低く、そして冷たかった。
「えっ……」
動揺を、初めて見せたのは蔵馬だった。丸い瞳が、見開かれた。
「そんなことじゃない!昔の借りを」


「からだでか」
カッと、蔵馬の頬が赤く染まっていた。
「そんなわけ、ない! 」
引き緩んだ蔵馬の表情を、飛影は初めて見た。
「自分のことを、けりをつけなきゃいけないこともある!」
叫びのような、その時初めて見せた蔵馬の感情だった。




・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


意外なほど、あっさりと二人は再会した。
国なんか抜きでよ…そう言った幽助が、またなと言って魔界の地を蹴った。
そして、埃の舞う大地の中で、蔵馬はただ飛影を見た。こんな風だったかと、飛影は蔵馬を見つめかえした。
全ての感情を押し殺したような蔵馬を、どう捕らえて良いか、分からないのは亜蔵馬ではないはずだ。
それほど、今の蔵馬の中には何の色もなかった。
「飛影……」
小さく、蔵馬の声が聞こえた。砂埃が、二人の間を舞っていた。そして次の瞬間、激しく砂埃が舞い上がった。
蔵馬が、駆けていた。
「蔵馬」
なぜと、と言うことも出来たはずだった。
でも…それよりも突き上げてきたのは触れたいと…この身体に触れたいという衝動だけだった。
あのとき何も言えずに蔵馬と別れた。離れても、蔵馬の息が、そばに見えていた瞳の輝きが蘇って堪らなかった。

そばにいる花の香り…それを感じることが出来ないことの喪失を、飛影は初めて知った。
ぎゅっと、しがみつく蔵馬の腕を、ただ強く抱いていた。
何も伝えることが出来ず…あの武術会から抱いていた自分の中の正体に、こんなにも遅く
気付いてしまった。
「…た、かった」
黒髪が、震えていた。
「あなたに、会いたかった」
ぎゅっと、蔵馬は飛影の黒衣を掴んでいた。
あのときの、…鴉と対峙したときのような、不可思議な弱さが、蔵馬の瞳に宿っていた。
「わかるでしょう……」
誰の妖気も、ついてないでしょ、とはだけさせた蔵馬の肌が、飛影に吸い付いていた。
まっさらな、白く艶めいている肌が、隙間から見えた。
「悪かっ…た」
それだけを、飛影は言った。



抱きしめてと、言ったのも蔵馬だった。
切なげに、蔵馬は飛影を見つめた。彷徨う両手をとって口づけると、蔵馬は
ふわりと笑ったのだ。唇を肌に這わせると、それだけで蔵馬のからだが
しなっていく。
「もっと……」
触れて欲しいと、上がる吐息の全てを、飛影は手に入れたかった。こんなにも熱く焦がれた存在を、知らなかった。
本当に…今なら分かる。好きが、初めて会ったときから心にあったのだ。

「あ、あ……」
耳に響く声の、違う色を引き出したいと…そう思う。けれど傷付けたくはない。
甘さに酔いたいのは、飛影も今は同じだった。



そして、小さく囁かれた言葉に、飛影は頷いたのだった。






パチンと、音がした。《これでいい》と、言ったのは時雨だった。
《痛くはないか》そっと蔵馬の耳にガーゼを当て、そして訊ねた時雨に、蔵馬は頷いた。
その耳に、触れるのは飛影の指先だった。
「行くぞ」
飛影の耳に光る、赤いファーストピアス。蔵馬の耳に、黒のファーストピアスが煌めいた。

小さなそれを、時雨を呼んで開けたいと…言ったのは蔵馬だった。《いいでしょ》初めて強請る声に、嫌と言うことが
出来なかった。

ジンと、熱い刺激が流れたのは本当に一瞬で……。このからだに、確かな色が添えられるそのことに、蔵馬が手を握った。




「あ、あ……!」
きれいだと、飛影は言った。
四つん這いで、腰を振りながら飛影の声に、蔵馬は頬を赤くしていた。
「この、色も……」
ひと月後……。
もう変えても良いと言われた蔵馬は、もうひとつ甘えてきた。
そして今がある。
突き上げながら、飛影は蔵馬の耳たぶを噛んだ。
「んっ…や……」
片耳に濃紺の……片耳に黒のピアスが、揺れる度に靡く髪に煌めいた。
「きれいだ」
「ひ、え…い」
触れたかった。
飛影の耳に…片耳に深い碧の…片耳に赤い蔵馬の薔薇の色…それに触れたかった。
だけど腰を押さえられた今は、ただ疼く興奮に流されるだけで。
「あ…んっ……」
ガクンと、蔵馬の膝が落ちた。
「あ…はぁ……」
倒れこんだ蔵馬のからだを仰向けした飛影が、唇を重ねた。真っ直ぐに蔵馬を射貫く飛影の耳が、月光を
反射して煌めいた。
「どうした」
溶けるような蔵馬の瞳、そして一気に濡れ始めたからだに、飛影の声が降っていた。
蔵馬は、うっとりと微笑んで指を伸ばした。
「……あなたの色…きれいで……」
こんなに深く引き込まれる色を、知らない。魔界のどこを探しても、これほどに魂から惹かれる人には出会えない。
この色を、刻みたかった。飛影の瞳を見る度
思っている。だから、そんなひとにこそ自分の色で染め上げたかった。
「蔵馬っ……」
こんな風に見つめられて、高ぶっていくのは仕方がない。熱が身体を再び
流れ始め、そして蔵馬を抱きしめた。こんな小さな石でも、その中に確かにきっと蔵馬を感じることが出来る。

「あ……は…ぁんっ」
のけぞる胸元に、刻む証しと蔵馬のピアスが、もっと二人を繋ぐ糸になる、
そんな気がした。蔵馬の色を添えたまま生きていく証しになる。

そっと、意識のない蔵馬の指が飛影のそれに絡まっていた。
ぎゅっと力を入れても、蔵馬は瞳を閉じたままだった。
そっと耳元の黒髪を引くと、ピアスが見えた。ピアスごと、耳たぶを舐めあげる。
「甘い……」
この、気持ちだけを甘いというのだろうか。胸を焦がす夜を、何度も繰り返したいと飛影は思った





Copyright 2019 All rights reserved.