愛染の、銀の吐息に T


肌を刺す空気に、小さく蔵馬は肩をふるわせた。ベージュのコートも、一瞬だけの
温もりで…。
仕事が立て込んだ、12月の初めの夜は滑らかな黒髪もパサつくほどの乾いた世界が
満ちていた。

もう21時。
はあ、と息を吐いて駅の改札を出た蔵馬の、手のひらがかじかんでいく。
金曜の夜なのに、周りの明るい声とは真逆の自分がいた。
もう2週間も、この時間に帰っている。帰りの電車で座れない日が続き、隣の駅へ
行きそうに
なったこともある。ひとの世界では、妖狐だった頃とは違う抑圧に、気持ちをすり減らし
そうだ。
マフラーを上げて、蔵馬は足を速めた。誰が待っているわけでもないのに、早く部屋の
温もりに包まれて眠りたかった。

眠りたい…あと少しで、このプロジェクトも終わる…。それを、待っている気持ちに
ハッとした。
これを軌道に乗せることが出来れば…父の会社も大きく業績を伸ばすことが出来る。
そして、それが会社の新しい道を切り開いていくれる筈…。蔵馬はマフラーに手を添えて、
キュッと唇を噛んだ。
多分この12月が戦いの月だ。今、妥協は出来ない、この寒さの中で耐えるしかない。
思って、それでもふと浮かぶ顔がある。
住宅街の脇を曲がり、マンションのエントランスを潜って、蔵馬は一瞬気配を探った。
…誰の気配も、ない。
マンションに入る度、いつも胸を突く、期待。もしかしたらは毎日襲ってくる
衝動だった。
ひとの世界とは違う気配を、その気を感じる瞬間を、心待ちにしている自分を自覚する。

たった一ヶ月会っていないだけで、あの人はどうしているかと思ってしまう。
街の中は近づいてくる12月のイベントに向けて、キラキラ光り、ハートの飾りが揺れて
いるツリーで一杯だ。雑貨屋の前に立つそのツリーに、狐の飾りが揺れていて、蔵馬は
思わず笑った。
ピンクの狐と、水色の狐が、赤い服を着て揺れている。手を繋いだ飾りに触れて見たりして…。
明るいクリスマスソングが流れ、宝石の店は今が大切と、気合いを入れている。
一層輝きを増したネックレスや指輪が、蔵馬の丸い瞳を誘惑していた。

煌めく季節を感じる度、飛影が過ぎった。
別に、自分が、イベントにこだわるほど人間に染まっているとは思っていないけれど、
それでも周りの人々は浮かれている空気をまき散らしている。
今日も、社員が、待合せだと言って帰っていた。大好きな人と過ごす12月のその
嬉しさが、声からも伝わるほどで。

あと、10日。



カタンと開けた部屋の扉を閉めて、蔵馬はチェストを開けた。
そっと、取り出した小さな箱。
小さな、青いブローチだった。サファイヤのような煌めきを秘めたその石は、
ティアドロップの、小さなもの。

飛影、と言う小さな声が、他に誰も居ない部屋に吸い込まれた。



去年の冬、飛影が渡してくれたものだ。
最近人間界かぶれしたという魔界の街で売られた、小さなブローチ。
似合う、と言って口づけた飛影の唇が熱かった。

握り絞めた蔵馬の手のひらで、それは柔らかな光を放った。転がすと、ほんの僅かに、
ティアドロップの丸みの部分に金の色が混ざっているのが分かる。
「こんな色…」
どこで見つけたのか…。
広い魔界の中を知り尽くしたと思っていた自分でもこんな色は見たことがない。
丸みを帯びた部分だけ、ロシアンブルーに近い色をしている。その中に金色の粉が
散っていた。一瞬銀にも見える、不思議な金色。
どこで見つけたのか。
偶然か…。
あの飛影が、これを買ってくれている…。胸がつまり、蔵馬はほんのT年前のことを
思い描いた。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


ハーーーーーーーーーーーっと、荒い声が響き渡った。闘技場の真ん中で、腕についた
血を舐めて、飛影は剣を仕舞った。
肩からボタっと血を流し、倒れ込んだのは百足の中でも10人に入るという男だった。
「これ以上は無理だな」
躯の声がした。
「ふ…ん」
カチャっと、鞘に収めた飛影が、小さく笑っていた。唇を引き上げて、滴り落ちる血を
一瞬だけ見て、飛影は男に近づいた。
「これは殺し合いではない」
うぐっと、膝を突いている男の、膝の傷に触れた。

百足の中で行われる、実力試しの、いわばイベントだった。
地位の高い者同士が力を競い合う、互いを殺すのが目的ではないのがこの闘技場の
イベントの意味だった。
飛影も、服の中心が敗れていた。
ビリビリになった自分の服に構わず、飛影はパサッと、何かを落とした。
「これ、は」
男が、そっと拾い上げたそれは、短い包帯だった。
「巻いておけ」


俺の分はあると、飛影はそれだけを言った。



バタンと閉められた扉を、もう一度見ると、飛影は早歩きになった。
「うっ…」
さすがに、これは…。
扉を閉めた瞬間、疼いたのは腹の真ん中の傷だった。血を出すわけでもないそこは、
グワッと拳を突かれた
衝撃で、中が歪んでいるのが自分でも分かった。
「はっ…うっ」
階段の途中で僅かにしゃがみ込んで、そこを押さえれば押さえるほど、身体の全てが
痛みで支配されるような感覚が飛影を包み込んでいく…。
腕の血が止まらず、ベージュの床にぽたりとシミが出来た。


「くら、ま」


小さく開いた百足の窓から、冷たい風が刺していた。
魔界も、冬だ。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


23日。
益々冷たく、指先まで刺すような空気に、蔵馬は溜息しか出なかった。
街は華やかさを増し、公園ではイルミネーションが、人々を引きつけていた。
銀色の丸い飾りと花が混じり、コントラストが夕方の濃蒼の空に映えている。
引きつける冷たい風を、一瞬だけ忘れさせてくれる、ときめきを運ぶツリー。

青と白で、冷たい色も暖かく見えるツリーの、不思議なロマンもあって。

写真を撮ってはしゃいでいるカップルが、見えた。
きゅっと胸を締め付ける痛みに、蔵馬はバッグを引き寄せた。羨ましいと、もっと
湧き上がる妬ましい感情が、…感情を…認めたくない。
手を繋いで、ミルクティーを分け合う、見せつけるような二人…。蔵馬の瞳が、
僅かに鋭く光り、伏せられた。
分かっている、本当は…他人と自分を比べても仕方がないことも、あの人は人間では
ないのだから、イベントを意識して日常を生きているわけではないことも。
そしてその状況を作り出した理由が自分にある、それも。
理性の音が遠く聞こえた。
我が侭を言っても、誰かが悪い和じゃない。はじめから、こういう状況になることは
分かっていた。
なのに。
父の会社も大切だし…だからこそ、キイと開けて帰る誰も居ない部屋に数時間、帰って
寝るだけの生活も、嫌いではない。
けれど人間としての生活が蔵馬の全てではない。
ただ…ただ、小さくはしゃぐ人間の、恋人というものへの高まりに、自分の思考も
染められてしまっている…。
それだけ。
ただ、こうして恋人というものは小さなイベントを味わい、それを楽しみながら心を
近づけていくもの…
それを蔵馬は何度も見てきた、長く生きた魔界での生き方を変えるには、短い
人間の世界の凝縮された幸せな形は輝きすぎていた。

「魔界にも」
クリスマスとか、バレンタインとか広まっちゃえば良いのに。

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ガタンと、大きな音がした。
「飛影!!」思わず部屋中に響く大きな声を、蔵馬は出した。
まさかという気持ちと、本当に飛影だと言う気持ちとどちらが分からない、言葉に出来ない焦りに
似たものが胸を突いた。
ただ、飛影の腕から流れる赤いものが見えた。飛影、と蔵馬はもう一度声を上げた。
倒れ込む飛影の、そのからだから力が抜けた。
「蔵馬…」
消えそうな声がして、飛影は蔵馬の腕に倒れ込んだ。




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「気が、ついた?」
小さく微笑む声に、飛影は瞳を開いた。魔界の冷たい床とは違う、柔らかな布が
飛影の身体を包み込んでいた。
ああ、ここは…僅かに繰り返される記憶を、痛む頭で辿ってみる…蔵馬の声だと、
この部屋がどこか、はっきりと認識できる。
ふっと、飛影の身体から本当に力が抜けた。
ここでは…神経を張り巡らせる必要が無い。蔵馬の黒髪が見えた。
「まだ熱があるから、少しじっとしていてね」
あれから何時間か寝ていたんだよと、蔵馬はからかうように笑った。
「ほら…これ飲んで」
差し出されたのは、不気味なほど真っ黒な…トロっつとした液体。うう、っと飛影は
目を逸らした、人間かぶれしたつもりはないが、余りにも恐ろしい色をしている
液体だった。しかも何だか鼻を突く苦い臭いが漂ってくる…。
「凄くよく効くんだから」
言う蔵馬の目が余りにも真剣で…。そっと、飛影はカップを手に取った。揺れる
不気味な液体。
蔵馬の部屋にきたときには力すら入らなかった肩や腕が動かせる…。
眠っている間に何をしたのか、ただ蔵馬は苦しげに目を細めた。
腕を見つめると、何か液体を塗った上に包帯が重ねられていた。苦い香りが腕から
漂っていた。
「これ、飲めば大丈夫…」
ハッと飛影は目を見開いた。
迫っていたのは、蔵馬の唇だった。ゴクンと、その液体を飲み込んだのは蔵馬の
口だった。…次の瞬間、重なった唇。
「んっ…」
「はっ…んぁ」
ぬるっと舌を蔵馬は重ねた。口内を辿りながら、優しい動きで、蔵馬はその液体を
飛影の喉の奥まで…流し込んでいく。
「ふっ…」
蔵馬の唇から滴る液体を、そのままに、もういちど唇を重ねていく…その瞬間、
飛影を包み込んだ、強い…花の香り。
「蔵馬っ」
ドンと、音がした。蔵馬の身体が、ベッドから突き落とされていた。
「お前っ…」
尻を突いた蔵馬は、身体を庇いながらベッドの飛影を見た。
「まさか…」
今、蔵馬が何をしたのか。何をしようとしたのか、気付かないまま受け入れてしまった。
液体を飲み込ませようとする蔵馬の深い瞳に飲まれそうで…ただの治療だという
勢いに、流されてしまった。けれど。
蔵馬の周りの揺らいだ空気に、気付かなかったのが失敗だった。
飛影の喉から落ちてくる…見えないそれ。喉を伝い、飛影の胸の奥まで、ゆるゆると
流れていく、心地の良い…物体ですらない、それ。
「飛影っ…」
「お前の…妖気」
蔵馬が、唇から流し込んだのは液体だけではなかった。黒い液体を飛影の身体に
落としながら、蔵馬はそっと妖気を重ねて流し込んでいたのだ。
はあはあと、肩で息をしながら、蔵馬は力が抜けたようにしゃがみ込んだ。
「ふふっ…大丈夫ですよ」
全部あげたわけじゃ、ないしね。
僅かに青白くなった蔵馬の頬を誤魔化すように、黒髪を撫でながら蔵馬は笑っていた。
ベッドの上から、そっと伸ばされた、飛影の腕。鍛えられた筋肉は…この腕は蔵馬の
ためなのだと、一瞬自覚する。
熱い熱に支配されて動くのも億劫だった身体が作り替えられたように、血が循環して
いることを感じた…。
身体を抱き込むようにしゃがんだ蔵馬の、頤を上げた。
「蔵馬」
はあはあと、蔵馬の、息が上がった音だけが聞こえた。
「済まなかった…」
「だい、じょうぶ…」
全部じゃないって、言ったでしょ…。笑う蔵馬に苛立ちを覚えたのは何度目だろう。
苦しいけれどあなたを助けられてよかったと、言ってくれればまだ良かったのに。
どうして大切なところで、強がるのだろう。
「でも、これで…大丈夫」
靄がかかった意識の端で…蔵馬の声が聞こえた。



・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


「飛影!!飛影!!」
その声で、叩き起こされるように目を覚ましたのは、それから数時間後のことだった。
傍の時計を見ると、21時…。
カーテンの外は暗闇が広がり、うっすらと月が姿を現していた。
「ひえい!」
高い声がして、蔵馬の部屋にきたときとは違う頭痛を感じた、こんな声はどこでも、
聞いたことがない。
魔界を彷徨っていた自分でも知らない声だ。どこかで聞いた声に似ている…けれど
知っているものではない。
「飛影ってば!」
布団を揺らす手が、ぐいっと飛影の肩に触れた…バッと取り去られた布団が、
床に落ちた。
「なんだっ……!!」
うるさいと怒鳴りそうな飛影の、声が消えた。
「何だ、お前…!」
目の前に、ベッドにに乗り上げていたのは、銀の狐…妖狐、けれど武術会で見たあの
妖狐ではなく…もっと若い…瞳はくりくりと丸く、頬が丸みを帯びていた。一見、
雌と言われても騙されてしまいそうな容姿だった。
そしてあの白い衣を纏い、ベッドに乗り上げる身体は柔らかな感触が想像できる…
窓の外の光を受けて、妖狐の腕が煌めいて見えた。
「飛影ってば…どうしよう」
直感が、これは誰なのかを示していた…。
「くら、ま?」
「そうだよ、どうしよう…目が覚めたら変わってたんだ」
うう、と弱々しく飛影に抱きついた蔵馬は、しゅんと尻尾を下げていた。
「妖気、おかしくなっちゃったからかな」
どうしよう、言いながら蔵馬は尻尾を右手でいじってみた。ふわふわのそれは、
人とは違う感触だった。
次の瞬間、蔵馬の耳がビクンと揺れた。
「なにっ…」
「妖気…戻せば戻るのか」
えっと、言いかけた蔵馬の耳が、今度は両方とも横に揺れた。まるで小さな人形だ。
人よりも白い肌と、銀色の耳と尻尾が、飛影に見つめられていた。ちょん、と触れた
飛影の指…冷たくも指先が暖かくて。
「ひ、えい…」
何だかくすぐったい…耳も、気持ちも。
そっと、蔵馬は身体を飛影に預けていた…ぎゅっと、飛影の黒い服を掴みながら。
「戻らなかったら、どうしよう」
ここに、いて…消えそうな声が、飛影の胸の中に落ちた。
「お前のおかげで、俺は…もう大丈夫だ。お前のおかげだ」
蔵馬の肩を、抱く指が優しかった。
「妖気…戻してやる」


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