fulfill

モクジ

  はつ恋は羽衣のように  

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冷たい雨が、肩を刺していく。 手の指まで氷のよう冷たさに凍えて、ぼんやりと、長い黒髪を揺らした。
、 蔵馬は顔を上げた。
「さむ……」
口に出せば、余計に心まで冷えているのが分かってしまう。
感情を押し殺そうとすれば、揺らぐ瞳の奥がじわじわとしずくを垂らしそうで、 この洞窟から足を踏み出すこともできない。
動けば一層、身体も心も凍っているのが分かってしまう。

ここは、昔妖狐のころ使っていた、魔界の奥深くの洞窟だ。
たった一つの言葉だけでこんなに涙をこらえている自分が、本当に愚かで笑えて来る。
「ふっ……」
小さく唇を歪め、しゃがみ込む様に崩れ落ちても、だれも声をかけることもできない。
結界を張ったのは誰にも襲われないためじゃない……。
誰にも声をかけられたくなかったからだ。こんな時どうしたらいいのか分かれば人は傷ついたりはしない。
間違いも過ちも、どうでもいいくらい。飛影が、好きだった。
いつか魔界に帰る日を夢みていたと言えば、浅はかな恋の様で、心を口にすれば、 軽い…大したことではない。
ただの夢見がちな恋にしかならない。
半年会えなかったその間にその人が変わってしまったのか、それを確かめる勇気も術もなかった。
堪えきれなくなったのは自分のほうだった。
躯が「この薬を作ってくれ」という依頼をしてきたことをきっかけに、魔界の土を蹴った。
薬など一晩もかからずに作れる……ただ、その時頭にあったのは、あの人の肌の香りだった。
会いたい。……蔵馬は、ただ魔界に走った。
今女王はいないと言われ、踵を返した蔵馬の手を掴み、女は言ったのだ。
「飛影への薬でしたら、要りませんよ」
私があの方の薬を作っています。
私はあの方のベッドで毎晩傷をいやしております。
走り出したのは、衝動だった。

ほんの一瞬の隙でも人間界まで現れてくれた飛影のまなざしを、忘れることは出来なかった。 あの腕が他人の身体を這うことを考えることなどできはしなかった。
百足を出て走り出した蔵馬の、その姿と躯が返ってきたのは同時だった。
晴れ渡る魔界の空の下を駆けていく蔵馬の手を、すれちがいざま、躯は引いた。 元気だったかと、笑い変える躯の手をひっぱたき、ただ走り出していた。
明るい躯の顔を、見たくなかった。
バサりと、薬の袋が落ちても、蔵馬は振り返れなかった。
女の手からは確かに飛影の妖気が僅かに香っていた。

人間の身体に宿ってからは、前の身体と同じ長さを生きられるかは分からなかった。
これが最後の大事な人かもしれないと、何度も思った。

「いつか、魔界に来るだろ」
飛影は確かにそう言ってくれていたはずだ。
だから、小さく微笑んで自分は返していた。ついていくその日を心に刻み込み思い描けば、
その心は憧れにも似たものになっていた。 飛影と生きていく未来は衝動とも憧れとも混ざり合っていた。


「ひ、えい……」
遊びであっても自分以外のに手を伸ばしてほしくなかったと言えば、それはわがままのだろうか。
そっと、蔵馬は足を踏み出した。
もう豪雨ともいえる魔界の雨で、靴の中まで水がしみ込んでいた。一歩歩くごとに、きゅっと言う音が して足の爪まで濡れていた。
シャツの奥までしみ込んだ雨が、その乳首まで透けさせていても気にも留めなかった。
どうせ……結界の中なのだ。
もっと、降ればいいと思った。

湖のふちに咲き誇る藤の花が、凍えた瞳の奥に、くるいそうなほど美しく咲いていた。
紫色の藤棚が、豪雨の中でも華やかに蔵馬の瞳に映っていく。
薄い紫色の花が、心まで染めてくれたらいい。……どんな、風に……一瞬、奥から声がした。
癒しのような光の花を、受け止められるほどの暖かな心は……もう持ち合わせていない。

「ああっ……」
バンっと妖気を爆発させても、藤の木に当たればそれは弾けて水の中に落ちるだけだった。
「ひえいっ……」
静かに湖の中に進んでいく身体が、温かいのか冷たいのか分からない……。
もし、ここで今消えても……。
白い頬が人形のように白冷たくなり、ただしずくが瞳から降りた。
これでも……これでも、ずっと好きだった。

「でも、……ね」
ふっと、蔵馬は頬を引き上げていた。小さく笑えば、藤の花が小さく揺れた。
「ずっと、好きだよ……」
愛も恋も、一つの真実でしかない。
真実を確かめるほどの、勇気がない自分がくだらなかった。
藤の花を振り返り、そして蔵馬は遠くにそびえる百足の頂を、ゆっくりと見つめた。

「飛影……好きだよ」
モクジ
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