indispensable pride of
長い黒髪が、ゆっくりと舞った。
肩に触れる黒髪が艶を失い、力なく落ちた。
「飛影!」
荒く息をするその人の傍で、魔界にはそぐわない人の身体をしたそのひとが、
縋るような声を出す。
「蔵馬」
傍に立つ、要塞のの女王が声を掛けても、蔵馬はじっと動かなかった。
「飛影!!」
悲鳴のような、泣く寸前の声が響いた。
長い黒髪の艶めいた色が、むしろ痛々しいくらい、青ざめた頬と別の世界のものだった。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥
「それ、は…」
使い魔が扉を叩いたのは、雨も降らない静かな夜の中だった。
使い魔の言葉を聞くなり青くなった蔵馬が、上に何も羽織らず飛び出した。
まさかと、青い汗が背を伝う。
「…ひ…」
その人の名を、紡ぐ言葉が先を失う。
人間界を飛び出し、魔界を走った。吹きすさぶ風の舞う魔界の丘を走り、
ただ遠くに見える百足だけを目指した。
冷える手のひらを握り絞め、こぼれ落ちそうな雫を、何度も拭った。
「…駄目だ」
小さく、それでも何度も呟いた。
あそこで涙を流すわけにはいかない。飛影以外の前で感情を溢れされることは許されない。
誰が決めたことでもなく、何度もそうよぎり首を振った。
涙は、誰の前でも…飛影以外の前では見せたくない。
使い魔の案内する道を、荒い息を吐き、何も言わずただ走った。
普段なら迎えに来るその人を思い、繰り返しその微笑みを思い浮かべた。
『蔵馬』
荒い声も、ゆるりと唱えるように呼ぶ声も、全てが遠く思えていく。
名を呼ぶ熱い声も、そっと抱く硬い腕も全てが脳裏から消えるようだった。
気まずそうに、使い魔が何度か蔵馬を振り返った。
「もう少しです」
百足が見えた、一つの夜を越えた頃、使い魔が蔵馬に言った。
地図で見ればそれほど遠くはない距離の中、それでも歩くには要塞は遠い。
「…ひ、えい」
小さく呟いて、蔵馬は痛みを訴える足に力を委ねるように唱えた。
あそこへ。行かなくてはいけない。
「蔵馬さま」
使い魔が、歩みを止めた。
「大丈夫、です」
魔界の瘴気を懐かしいと思うことすら今はない。
そんな荒い空気でさえ、今蔵馬にはただの雑音と同じだ。
飛影以外の存在は、雑音でしかない。
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