カルマの坂
遠く、罵声が聞こえた。
「待て、このクソガキ!」
激昂した男の声が聞こえた。街の喧騒を縫って、少年ははだしのまま駆け抜けていく。街を包む賑わいの中
その声に人々は振り向いた。その中を、ひたすら走って行く少年がいる。
ぼろぼろの服を着て,まだ小さなからだで必死に走っている姿が、平和に見えるその街の中で浮いていた。
「このっ…返せ!」
小さな体からは想像も出来ぬような凄い速さで賭けて行く少年に、男が石を投げた。
…誰が!返すか!
少年は,右手にしっかりと持っているパンを見て思う。これを返したら,牢獄行きだ。花屋と少女たちの声、子供たちが
歌う声。平和な街。その中を、冷めた目の少年が走って行く。
これを渡したら、駄目だ。
ぐっとパンをつかむ。服の袖は所々切れていて、剥き出しの足は切り傷がいくつも見えた。
それでも、少年は立ち止まろうとはしなかった。
飛影。少年の名は、ひえい。…街の片隅で、貧しい家に生まれた少年の名。
心が作られた頃から、飛影は生きるために盗みをしてきた。
「地獄に落ちるぞ!」
男の声が聞こえた。
死んだ後のことなど、考えはしない。希望を抱くことを、飛影は捨てていた。そんな無駄なことを、飛影は知らない。
生きるために、人の目を欺いてきた。
片隅の教会の牧師が言っていた。人は生まれた瞬間から皆平等なのだと。飛影は思い出して口の端で笑う。
それはあざけりにも似ていた。
…―――人は皆平等?
意味の無い救いの言葉。聞き飽きていた。聞けば聞くほど、心は冷めてゆく。怒りと言うほど熱くなく、諦めとは
言えないものが飛影を包んでいた。何が平等だ、と何度思ったことだろう。
白々しい神の教えが本物なら、自分たちは既に、輝いた生を与えられているはずだ。
僅かの隙をついて手に入れたこのパンを、どんな思いで味わうか、やつらは知らない。
神でさえ、その気持ちは理解出来ないだろう。腹が鳴るのを感じて、飛影はからだから
力が抜けるのを感じた。
それでも、唇をかみ締めて走り出した。
気がつくと、自分を追ってくるあの声は聞こえなくなっていた。ほうっと息をついて飛影が足を止めたその時だった。
華やかな一列の行列が街の中心を通った。どよめきに、反射的に飛影もその方を見た。と、直ぐに視線は一点で止まった。
一人の少女が,その中に居た。長い黒髪に白い指先が飛影を足止めした。すうっと、少女の全てを見つめる。
華やかな行列の中で、その少女だけが,不思議と浮いていた。薄く化粧をされている顔は美しい。
しかし、纏うものは悲しみの色。白い頬には薄紅が塗られていたが、何の意味もなさず。
少女の歩いているそこだけが絵巻物から切り取られたかのように、浮いていた。
どこからか、売られてきたのだろうか。
無気力に歩く少女の瞳に、透明なしずく。愁いを帯びた瞳は、しかし澄んで見えた。少し開いた
白衣から、一瞬だけ肌が覗く。
飛影はそれを見止めた瞬間に、動いていた。
少女のからだにふと見えた跡。
憂いを帯びた瞳の奥に、はっきりと見えた悲しみ、それは哀しみとなって飛影の胸に降り注いだ。
権力者が気まぐれに買う少女たち。この少女も、数多いそのうちの一人なのだろう。札束で弄ばれる運命を
少女たちはどうやって受け止めるのだろう。財を欲しいままにし、下の人間にはひとかけらの自由も与えない権力者。
あの白い肌に触れたの手は、どんなに薄汚れたものだろう。
鋭い瞳が少女を見つめる。
夕暮れを待って、飛影がターゲットにしたのは大きな剣だった。疲れ果てている飛影のからだに、その剣は
重くのしかかるようだった。
だがしかし、ここで立ち止まることは出来ない。それは駄目だと、もうひとりの自分が囁いた。
見知らぬ力に後押しされるように、飛影は走った。
誰かが遠くで自分を動かしている、そんな気さえした。あの少女の瞳が焼きついて離れない。
希望と言うものは自分もとうになくしているが、少女のそれは既に絶望に近かった。
門番を血まみれにして剣を振り回し,混乱を飛影は生み出した。両手はこんなにも熱いのに、指先は恐ろしいほど
冷たく感じた。
広大な敷地の中、大きな庭で少女は泣いていた。飛影は無言で少女の前に姿を現した。少女は泣き濡れた瞳で
飛影を見上げた。
暫く飛影を見つめて、そして小さく微笑んだ。
人形のように繊細な顔立ちは、触れたらそこでパリンと音を立てて壊れる細工のようだった。
少女の目に、激しい感情はもう無かった。見知らぬ少年、飛影を見てもほんの一瞬驚きを浮かべただけ。
もしこれが本当に物語ならば、少女はバラ色の笑みを浮かべていたのかもしれない。
瞳に輝きを持って飛影を迎えて。しかし、これは甘い絵物語ではない。飛影はそれを知っていたし、少女も
きっと知っていた。
心の奥底までも乾いてかれ果てている少女。なのに、何故か涙だけは流れた。
スッと、空を切って、見事に首筋に当たった剣に少女は又少しだけ驚いて見せた。だが、動揺は無い。
…名は。
遠くで屋敷の混乱が近付く気配がした。
飛影は聞いてみた。
―――蔵馬。
その言葉を聞いた瞬間、飛影は微笑んだ。
風が舞い、木の葉が舞い散った。
屋敷の主は騒ぎを聞いてこっちへ向かってくるようだった。
飛影は、少女に突き刺した剣を見つめた。鉄のようなにおい。紅い血。
黒髪の少女が確かにこの世界から消えたのに、飛影は悲しみを持っていなかった。力が抜けた飛影のからだは
空腹を訴えた。
―――痛い。
それは、何の痛みだろう。意味すら知らず、理由すら言葉に出来ず、飛影は両手を空に掲げてみた。
赤の流れる手のひらのむこう、太陽の光が見えた。
涙は流れないまま深く強く、静かに広がるもの。
それは、誰も知らぬ物語。
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