鼓動の彷徨い人

甘い香りと濃厚なワインの香りが混ざった売り場を、蔵馬はゆっくり進んでいた。
そろそろバレンタイン。
すっかり女の子のイベントと化しているこのイベントは、それでも蔵馬が混ざっていても
誰も気にしていないようだった。
試食の声が混ざり、受け取ったトリュフを噛んではまた貰う、それを繰り返すと
口の中が甘くてムズムズしてくるもので。
「おい!」
後ろから掛けられた声に振り向くと、見知った明るい顔。
「幽助」
「何悩んだ顔しているの、あっちへ持って行くものか」
からかうような言い方に、蔵馬は少し顔を背けた。そうとも言えるけど、そこまで考えている
わけではない。
バレンタインの定義なんて、飛影が知っているかも、わからない。
「いいじゃん、こう言うのって何度も教えてやって毎年上げたら喜ぶだろ」
ははっと笑う幽助の声に、頷くしかなかった。


結局4個入りの小さなものを買ってしまった。
あっさりした味わいの、しつこさのないものは、誰でも受け入れられる味…。

友チョコ、と言われて幽助からも受け取ってしまったけれど。
頑張れよという声が、優しくて…。

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けれど、まだ冬の名残のあるその日、夜は…静かだった。
売り場を離れて袋を握り絞める…その頃には肩も寒くなっていて…。

夕飯のパンを頬張りながら、蔵馬はカーディガンを引き上げた。
あの時は、温かい声に満たされて…全てが溶けていくような気持ちになったけれど。
バレンタイン、こんなイベントで魔界に追いかけていく勇気は…まだない。
本当に、どうするのが一番正しくて伝わるのだろう。

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥



あの時は、温かい声に満たされていた。


武術会の終わり、全てが終わり、海を眺めていたその時だった。


ザアっと波の引く音がした。
煌めいた、濃紺とエメラルドグリーンの混ざった波が、近づいて引いていく、それを蔵馬は
見ていた。
「終わったなーーー」
遠く、幽助の声が聞こえた。
終わった。


その事が、少しずつ胸に迫り上げてくる痛みに、蔵馬はしゃがみ込んだ。
「っ……」
痛い。
胸の奥が…言葉に出来ない苦しみに潰されそうだった。知っている、その理由も…自分では
どうしようもないことも。


『どうしようもないな』
そう言ったのはあの人で…鴉戦の後、闘技場から倒れ込んだ蔵馬に、あの人は言った。
はっと見上げると、何を考えているかわからない、蒼い瞳があった。飛影。黒衣を靡かせて、
飛影は感情の分からない声で続けた。
『もっと自分を守れ』
それだけ、最後に聞こえた。
そして飛影は、闘技場を蹴った。

どうしようもない、それが何を意味するのか…。分からなかった。
その日、部屋に飛影は戻ってこなかった。


なのに。
「あっ……」
翌朝のそれに、蔵馬はハッとした。
あの後巻いた包帯が、新しくなっている。飛影は部屋戻らなかったはずで…、眠るときに巻いた
包帯が新しくなっていた。
白く、白く巻いたばかりの包帯が蔵馬の腕に強く巻かれていた。うっすらと感じるその布から染み出た…
妖気。
「これ、は…」
じわじわと湧き上がるくすぐったさが…蔵馬を満たしていく…。
「飛影」
覚えのある炎の妖気…。普段の熱さとは別に、なぜか柔らかく、ふわふわと取り巻くような妖気だった。
けれど、確かに感じる、飛影の気配。


あの言葉は、何だったのか…。

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…


『どうしようもない』
自分が発した言葉を、リフレインさせていたのは飛影だった。
あの時、何故それしか言えなかったのか。

鴉の爆弾が、蔵馬の身体を赤く、痛々しく染めていく…、ああ、と言う悲鳴のような声が
聞こえ続けていた。
飛び出したいと思ったのは何度あっただろう。蔵馬の腕を引いて、蔵馬の前に立ちはだかりたかった。
何も出来なかった。
蔵馬の白い方が、破れた布から見えた。
力が入らず屈み込む蔵馬の、足がやけに細く見えて…。
『蔵馬!!』
幽助の声が聞こえた。


ああ、と思うしかなかった…。
凍矢戦…あの日も、幽助の声を聴くだけしか出来なかった。自分のせいで。蔵馬が。
凍矢の攻撃を受ける蔵馬の、光が知りたいという声が…消える前の言葉のようで。
どうしようもない。それは自分への言葉だったかもしれない。
何も出来ない。
蔵馬が爆拳攻撃を受ける様も、見るしか出来なかった…画魔の技を飛影が見極めて
言葉を贈ることも出来なかった。
何も出来なかった。
蔵馬のことを、ずっと見ていたのに。見ていただけで何も役に立つことができなかった。

うまく言葉を掛けられず…蔵馬の腕を引くことも出来なかった。
本当はもっと…その肩を抱いて、力を送り…もっと、もっと素直に…。

なのに、いつも、うまく手を伸ばすことが出来ない。


ただ出来たのは、あの鴉の戦いの後蔵馬が自分で巻いた包帯を、眠った頃変えるだけで。


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海の音を、飛影も聞いていた、蔵馬から少し離れたその場所で。
船は遠くに、旗を靡かせて停まっている。

あれに乗れば蔵馬と会うことが…次にいつ有るか分からない。そして蔵馬の、あの碧の瞳を
見ることもない。

ザッと音がして、その瞬間飛影は顔を上げた。
突き刺さるような、視線。
蔵馬。

遠く、蔵馬は飛影を見ていた。


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「また…会いたい」

そう言ったのは、船が出る音がしたその瞬間で。

ただ堪えきれず…波が引いた音の瞬間に、飛影は動いていた。
今離してしまえばもうこの手を伸ばすことも、触れることも出来ない。
自分を見ている切なげな瞳に、気付いているのに、知らない振りをしていた。
それが…もう今は我慢できない。


後ろから抱いた蔵馬の肩は小さく…白さが、島の太陽に照らされて浮かび上がる
ようだった。
この身体で、闘っていたと…当たり前のことですら今は痛々しく思えてくる。
「飛影…」


本当に、と振り向いて手を重ねたのは、蔵馬だった。

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あの日から少し経った。

会いたいという言葉だけが蔵馬の胸に残り…飛影は魔界に戻っていた。

あの時浮かれた気持ちは、いつまでも維持できると…その時は思っていたけれど。
でも、飛影からは何も音沙汰がない。

「忘れ、ちゃったのかな」
膝を抱えて、蔵馬は包みを転がした。
忘れてしまったとしても…それは、誰のせい。奥から、小さく声がした。窓から見た
並木が、激しく揺れていた。…急かすように。
このまま、黙っていて良いの。
もう一人の自分の、声がするようで。
箱に書いてある小さな言葉…。


I want tell you truth
I feel you with future

今の、この思いを…無駄に消してしまう…そのままでいいのかと、痛む胸が…
あの時と同じように囁いているようで。


すっと、蔵馬は立ち上がった。

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魔界の風を、一瞬眩しげに蔵馬は見つめた。
街の外れの並木の奥に…魔界へ通じる僅かなきしみがあるのだ。これを、蔵馬は
幼い頃から知っていた。
ブワッと風が舞う…その一瞬…。

ゴクンと唾を飲み…離れた場所から見つめた蔵馬の、足が前に伸びた。
走り出すその瞬間だった。

これを抜ければ…あの人の居る世界に触れられる。もう懐かしいとかそう言う気持ちは
今はない。
遠く、離れた世界のようにも思えるそこを、飛影に会うためになら。

蔵馬の足が地を蹴り…その瞬間。


「蔵馬!」























覚えのある声がした。
きしみの方からではなく…蔵馬の、後ろから。


振り返った先に、居るはずのない人の…。


「飛影!」

泣いたような、苦しいような声が響いた。誰も居ない並木の傍で、飛影は立っていた。

幻かと、一瞬何かの罠か幻影か。
分からない。
自らこの世界に足を運ぶ飛影なんて…現実なのかも分からない。


「どこへ…」
驚きの声が、聞こえた。
「あ、の…」
どこへ。
答えが、見つからなかった。どこへ。はっきりとした答えが、出てこない。どこへ。
飛影のもとへ。その、飛影の胸の中へ飛び込みたくて…飛影のところへ。
「あなた、に…」

妙に、口が乾く。喉の奥まで指の先まで乾いている。
何も言わず、飛影は蔵馬を見た。


数歩開けて、飛影は小さな声を出した。

「同じだな」
くっと、飛影の口が上がっていた。
くすっと、笑いが続いていく…。
「お前に、会いに来た」
バレンタインだからな、と。
投げられた、小さなブレスレット。紫水晶の…。

:真実の愛を与え、絆を深める、想像力や理解力を高める

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初めてのからだが、強ばっていた。
強くしたくない。その気持ちと、急かす気持ちが交錯する…。
飛影が身体に触れると、蔵馬はそっと息を殺した。
指が、飛影を求めるように彷徨っていた。仰向けの身体が白くて綺麗で…。
熱く、何度も飛影は口づけをした。そっと舌を絡ませれば僅かに蔵馬は応えてきた。

蔵馬の足を広げると、激しいと息が漏れた。
飛影…頼りなく呼ぶその声を、ずっと聞いていたいと思った。
こんなに好きだと思うことは、初めてだ。

蔵馬の手を取り背中に回す、強く、蔵馬は抱きしめてきた。

口づけを身体中に散らすと、びくんと蔵馬はしなっていた。
「蔵馬」
見ろ、と頬に手を当てる…その深い瞳を、もっと向けさせたい。
だから、前髪をかき上げてみた。んっと、もぞかしさに蔵馬が目を開けた。
「俺を、見ろ」
言って腰を進めていく…。
あん、と言う甘い声が、響いた。
潤んだ瞳が飛影を見た。飛影の赤い瞳が蔵馬の全てを包むように近づいていた。
のしかかる飛影の身体が熱くなっていく…。
蔵馬が息を吐く度に、その飛影の中心が滾っていく。
「あっ…」
蔵馬の腕に唇を落とし、飛影はゆっくりと唾液を伸ばしていた。この全てに、自分の印を刻みたい。
傷付けたくないのは、どこまで本当だろう。
闘いの中で傷ついた蔵馬の頼りない身体を何度も見た。
けれど手に入った瞬間、壊したいような守りたいような…もどかしく混ざり合う
衝動に駆られた。
どうしたいのか。
ただ蔵馬の全てに、好きだと伝えたくて。
なぜ巡り会えたのか。
運命だと言えば甘すぎて、簡単な言葉にしすぎたようで…。偶然と運命の狭間かも
しれない。
もっと近くもっと早くここにたどり着けたかもしれないのに。
愛は、こういう気持ちなのだろうか。
「好き、だ」
言葉にしないと、伝わらない。

それを、今更知った。

未来まで、ずっと好きだ。

「ああっ…」
激しい高ぶりを、蔵馬が甘く受け止めた。
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