恋 風 吹く 先に

モクジ

  tailwind  


偶然の力とは、こんなにも凄いものなのかと、飛影は思った。
本当に、心の奥底から。

「どうした」
隣の男が、ふっと視線を落とした飛影に気づき、声を掛けた。
魔界の乾いた土の香りが漂う大地で捜索隊は歩を進めていた。

「…何でもない」
言って、飛影は前を向いた。何でもない、その言葉に嘘はない。
ないけれど、一瞬見えたその花が甘い記憶を、甘いその存在を思い起こさせた。
その人の黒髪からフワリと香るそれまで思い出すようだった。
飛影は、フッと首を振った。

パトロールに戻るべき、と言う気持ちなど少しも持ち合わせていない、
それなのに、その人の面影を頭から振り払った。
隣の男がいぶかしげに飛影を見つめた。

「お前でもそんな目をするんだな」
不思議そうに、覗き込むように見つめられ飛影が口を開いた。
「…そう、かもな」
返ってきた答えに、男が身を怯ませた。
「どうした、お前」
らしくない、と言いかけて、早足になった飛影を追いかけた。

魔界の奥の大地に咲いた、薄桃の色の…薔薇に似た小さな一輪の花を、
飛影が見つめたのは、指を折るほどの数秒でもない短い瞬間。

暖かな眼差しと、きゅっとつむった唇が、飛影に浮かんだのも短い瞬間。



・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…


「…あなたが好きです」
そう、蔵馬が初めて言ったときのことが、まだ頭に鮮やかに残っている。



それは武術会の…嵐のような日々が過ぎたその最後の日、
蔵馬はただ飛影を見つめた。
そして荒れる風の中で、ただそれだけを言った。

「あなたが、ずっと好きです」
二人の視線が絡んだその時の、胸を込み上げる…迫り上げる甘い感情の名を
飛影はそのとき名付けられなかった。

島の土は無機質に冷たく、二人の間をザラザラと、取り巻くように流れた。
土埃が、舞うほどでもなく、なのに足に絡む。

「…ついてる」
ごくんと息を呑んだ蔵馬の、黒髪に落ちた花びらを、飛影が手を伸ばした。
その時に蔵馬の耳元に触れた花びらが、薄紫色だった。
蔵馬の黒髪が、島の空気で乾いて艶を失っていた。
「だから、痛んでいると言われるんだ」
突然に発せられた飛影の言葉に、蔵馬が肩をビクンと震わせた。

「この島にも、花なんて咲くんだな」
飛影が、蔵馬を見つめて言った。花びらを手に取り、飛影がきゅっと握った。
ふっと、飛影がその花びらを吹き飛ばした。
「…綺麗だな」
戸惑いのような色を滲ませた蔵馬の瞳を、飛影が射貫いた。

「お前が」
沈黙を、短く破り飛影が紡いだ。
「誰にも、触れさせるな」
黒髪の先にゆっくりと触れた。その指先に、蔵馬の碧の瞳が吸い付くように流れた。
「…そばに、いるから」

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥

あの時の薄桃色の花びらに、似ている。

胸の奥に蘇る、蔵馬の表情の全てが、今更痛みに変わっていく。

魔界の土を踏みながら、後ろを振り返った。ゴウゴウと、魔界では見慣れた、砂嵐が
遠くに見えた。あの時力の全てを賭けて極めた黒い龍を、本当に守りたいもの以外の
ために使っている。
正しいとか間違いとかそう言うことだけでは測れない悔しさを、
砂嵐を見つめて自覚する。

このまま、この砂嵐に流されて…奪い去れたら。

何度自分に問いかけたか分からないことを、また繰り返す。

あの武術会のこと、闘うことに賭けていたけれど、そばにあの人がいた。
失いたくない存在を、初めて知った。

だから極めた黒い龍を、今失うわけにはいかない。
もっと飼い慣らしとも良いとさえ思う。
強さは自負になり…今なら言葉にできる…恋を強くする。

遠くに見える薄紫色の花を、飛影の目が眩しく見つめた。

花の香りまで、ここに漂うようだった。あの時の花びらと、同じ香りで。

「綺麗、だな」

誰に聞こえない音を、発した。誰にも聞かせないから言えた。

「悔いなんて、するか」

…けれど、あの人の残像が、消えない。…会いたい。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


「帰ったか」

笑って出迎えたのは、嫌みなほど美しい要塞の女王だった。

百足の前で腕を組んで迎えるその仕草に畏怖を抱くものだっているだろうが、
黙って早足で進む飛影には、ただの他人だった。

百足の周りの黄色い土が、飛影が歩く度に舞い上がる。


近づけば近づくほど、飛影は眉を顰めた。美しいその女王の、口角が上がっている。


「…何だ、別に異常はなかった」

それだけ言って、躯をの脇をすり抜けようとして…

「何だよ、素っ気ねえの」
「…離せ」
腕を掴まれ、飛影が女王を睨んだ。

「そんなこと言って良いのかよ」
ニヤリとして飛影の腕を、躯が引いた。ハッと、飛影は百足を見た。

「…お前…」

長い黒髪を靡かせて、その人が、立っていた。















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