恋の鼓動


その日を前にして、生徒たちは浮かれていた。
進学校であるこの学校でも、こう言う時は明るく弾けた雰囲気になるものだ。


「こっちでいいか」
「もう少し…」
廊下の飾りやポスター係りの声が交差し、
ダンスの音楽や、吹奏楽の音楽が響きあっている。

ガヤガヤしている中にも決して下品ではない空気があって、それはこの学校だからこそのものかもしれない。

この街でも評判のいいこの学園で、この時期は少し生徒がざわつき始める。
吹奏楽部は張り切って練習をしていて、全体の1割くらいしかいない女子は、飾り付けに盛り上がっていた。

あと3日で、文化祭だ。
普段にはないざわめきが広がる校舎で、一つだけ静かな場所があった。
そこは、教員室の隣にある部屋だった。
「警備の人数はこれでいいか」
「はい。位置は…」
穏やかな声で赤い印を付けていくのは、文化祭執行委員の、蔵馬だ。
クラスで二人、文化祭執行委員を立てる事にしている。
数少ない女子を狙った事件もあるため、警備の手配や受付の手配、冊子作りなど忙しい。
予算書作成も、執行委員の仕事だ。
蔵馬はここ最近ずっと残っていて、少し疲れた顔をしていた。

一通り書類に目を通してため息をついたのは7時を回った頃だった。
委員長と蔵馬以外、もう残っていない。
「お疲れさま。あと少しだ。先に帰っていいぞ」
委員長の言葉に、蔵馬は頭を下げると部屋を出た。

空を見上げると、秋だからか、もうかなり暗かった。
「あ」
人の気配に気付いて、小さな声をあげた。
「飛影」
校門に、飛影がいた。相変わらず愛想なく立っている。

「待っていてくれたの?」
「悪いか」
冷たい言い方、でも、それは多分肯定だ。飛影の姿を見て、気持ちが明るくなった。
「ありがとう。」

飛影は学年一個下の、一個年上だ。 妹のからが弱く、治療のため引越しをした期間があるため、そうなっている。
そのせいか、蔵馬にも周りにも、かなり偉そうな話し方だ。

「そんなものまで持って帰るのか」
飛影は、蔵馬の紙袋を見て言う。
「あ、うん。ちょっと見直さないと」
言って笑う顔には、疲れが出ている。飛影は心の中だけでため息をついた。
「少し手を抜け」
「そんな訳には行かないよ!…でも、ありがとう」
はにかむ様な笑顔で返されて、飛影は蔵馬の頭を撫でた。
「ちょっと…」
心底ではないが嫌そうに、蔵馬は身を捩った。

小さな触れ合い、いじりあいが、妙に心地いい季節。



書類を机の上に置いて、蔵馬はチェックを始めた。

優秀なせいもあって、担当の教師に仕事を依頼されることが多い。
断りきれず引き受けてしまうのだが、さすがに後悔することもある。

でも、飛影がいてくれてよかった。
そう思う。



当日はかなり晴れていて、人も多く集まっていた。
パンパンと言う音とともに、かなりの人が入って来た。


執行委員は忙しかった。
一度事件が起きてしまったので、警備員を配置しているとは言え、見回りもしなくてはならない。
来客へのパンフレットの配布や講堂がうまく予定通り進んでいるかもチェックする。
午前中はあわただしく過ぎていった。

12時を過ぎた頃鏡を見るとやっぱり疲れ顔で、少しため息をつく。
駄目だ、しっかりしないと。
自分に言い聞かせて、ウィダーを飲む。
昼も、ちょっとしたものしか食べられない。
執行委員の運命と言う感じだ。

出し物は結構盛り上がっているようでほっとする。
成功しているのを目で感じることは、やっぱり、喜びに繋がる。
お化け屋敷や占い、結構本格的なダンスなど、人気のものは列が出来ていた。



校内は普段とは違う華やかさを持っていた。
女生徒はピンクのメイド服にヒラヒラのエプロンをつけて呼び込みをしている。
吹奏楽部のレベルの高い演奏は保護者にも人気だ。

ガヤガヤした中で、ピンポンという音が鳴った。校内放送だ。
”これから、7号館で演劇部の出し物を致します”


女生徒が浮かれた声を出した。
「きゃ、よかったわね!」
はしゃぐ生徒は多く居る。
心地のいい高い声は、蔵馬の声だった。
短い案内放送が終わると皆キャッキャッはしゃぎだした。


込み合っている店内で、少しむすっとしている男がひとり。

飛影だった。

飛影のクラスは喫茶店をしている。ちょっとしたお菓子と飲み物だが、女子の提案で、男子は皆
ホスト風の服装をしている。

黒いタイに白いシャツは、クールな飛影の雰囲気をいっそう引き立たせていた。
が、女子のはしゃぐ声が、飛影の機嫌を悪くさせた。

そこへ、突然明るい声が響いた。
「ご機嫌斜めだなー」
「幽助」
他のクラスから、お客が来ていた。
「出し物なんだからちょっとは愛想良くしろよな」
「うるさい、注文は何だ」
「へえへえ、あ、俺これね」
低気圧を察してか、幽助はメニューをすぐに指差した。

「ふう」
一段落してコーヒーを飲んで、蔵馬は伸びをした。
少しも休みが取れなくて、さすがに疲れた。
束の間の休憩にほっとする。
放送室でひとりなので、今は少し力が抜けた。
と、小さな音がした。

コンコン。
「はい」
「俺、俺」
幽助。

蔵馬は戸を開けた。
「お疲れさん。今、時間大丈夫?」
「え、うん」
「じゃあさ、ちょっとだけ出かけねえ?」
「え、でも」
「ちょっとだけ」
幽助は蔵馬に耳打ちした。

”飛影、ちょっとかっこいいから見に来いよ”
迷う間もなく連れ出された。
急ぎ目に歩いて、幽助と蔵馬は飛影のクラスの前にいた。
” おもてなし喫茶 ” と書いてある看板が目に入る。
おしゃれをした女生徒が客集めをしているのが見えた。
「ちょっとだけ覗いていこうぜ」
「え…」
「ほら、あそこにいるだろう。飛影、かっこいいだろ」
見つからないように顔だけ出してちょいちょい指差す。

飛影は奥にいた。黒いタイはぴったり眼に結ばれていて、すらっとしたからだが
強調されている服装は、いつもと違う感じだった。

ウェイターをしている姿は凛としていて,近づき難い感じもしたが、目を離せなかった。
「な?」
見に来てよかっただろ、と幽助の声。
もう、と小さく睨みながら、ありがとう、と言った。

その時、蔵馬のそばを、覚えのある声が通り過ぎた。

「おにいちゃん!」
飛影の妹だ。
嫌そうな目をして、飛影は棒読みで接客する。
「来ちゃった!」
「お前…」
飛影は雪菜の隣を見る。
「ああ、私の友達、来てみたいって言うので連れて来ちゃった」
えへ、と雪菜が言うと傍の女の子は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ふんわりカールのクルクルのヘアスタイル、少し抑え目でも上品な服装は、雑誌の中の子のようだ。

その娘は、飛影に微笑むと雪菜と仲良くしゃべりだした。


「…」
突然の雪菜の登場に、蔵馬は帰りそびれていた。

そして一緒に来ていた女の子の中に、それを見つけた。
可愛い笑顔。人懐こそうな瞳。飛影を真っ直ぐ見つめて話を振る。
高い声。
その奥に、飛影を離さないと言う意志を感じる。

蔵馬の鼓動が速くなった。
からだがさめていくようで、心地悪かった。

今まで意識しなかった。

飛影は周りをひきつける力を持っている。
自分だけが飛影を見ているわけじゃない。
飛影は気づいているのかもわからない。

飛影にひきつけられる人は、いっぱいいる。

今更気づいた気がした。
それからは余り集中できなかった。
書類はしっかりと見ているが、気持ちが乗らない。
やることは多くあるから考え事の暇はあまりなかった。逆に、それはそれで幸いなことかもしれない。




パンパンと終了の音がして、一通り片づけが終わると、蔵馬は屋上に来た。

下の賑やかな空気は成りを潜めて、今は一抹の寂しさと半分残る喧騒で溢れていた。 屋上からは、それらは少し遠く感じる。

「飛影から」
幽助が、預かってきたと言ってメモを渡してきた。
屋上で待っていると書いてあった。


落ち着かない気持ちで階段を上がってきた。 乾いた風が少し気持ちいい。
飛影は、端っこに座り込んでコーヒーを飲んでいた。
蔵馬の姿を見ると、もう一本空いて居ないカンを投げた。
「あ、ありがとう」

視線で促され、近くに座る。飛影とは一人分の隙間を空けて。
「お疲れ様」
少しの沈黙の後、蔵馬から切り出した。
「ああ」
お前も、と飛影が返す。
暖かいような、くすぐったいような気持ちが広がった。

「お前も大変だったな」
飛影が蔵馬を見つめた。
「え」

後処理で、担当の教師が蔵馬を離さず最後まで仕事をさせていたことを、飛影は知っていた。
どうして、そんなことを言うの、と蔵馬は問いかけたかったが、言葉が出てこない。
飛影に真っ直ぐ見つめられるのは、昔から苦手だ。


けれどそっぽを向くわけにも行かず、蔵馬も飛影を見つめた。

その時、はっと気づいた。
飛影の瞳の中には、労りのような光と、何を考えているのか悟らせない黒が混ざっていた。
…分かってくれている。
自分の事、分かってくれている。
「…」

どう言って良いのかわからない。優しいような冷たいような飛影の態度に、返す言葉は見つからない。

ぎゅっとコーヒーを握り締めて、 「ありがとう」とだけ言った。
それが、精一杯だった。

飛影は直ぐには言葉を発しなかった。
少しだけ、コーヒーを飲んで、小さく口を開いた。
「お前は」
「…」
「余り、抱え込むな。少しは他人を頼れ」
きっと無理だろうが、と思いながら、そう言った。
「飛影」
蔵馬は、はっとした。

飛影は、至近距離にいた。2人の隙間は縮んでいて、蔵馬の鼓動が大きくなった。


瞳に捉えられそうで、怖い。怖いけれど、離れられない。
飛影の気持ちが、分からない。
分からないのは、自分の気持ちかもしれない。 「…うん」
それだけを返す。
飛影の瞳は熱を帯びていて、あまりにも近い距離に蔵馬は一瞬おびえた様に後ずさった。
「!」
不意に、飛影はその腕を掴んだ。
「ひ…」


続ける言葉は風に流された。

気づいたら、腕の中だった。
飛影の大きな胸の中に抱きとめられていて、一回り小さい蔵馬の体は抑えられていた。
吐息が、かかるかと思った。

そして、次の瞬間
「…!」
唇が重なった。碧の瞳が見開かれた。

小さな声が、聞こえた。
「お前が、好きだ」