夢幻-1   Tangled string


「もうただの俺だ」
蔵馬はそう言った。
黄泉は、見えない瞳を蔵馬の方へ向けた。
見えなくても解る、今の蔵馬は綺麗だ。
−−幽助。
ありがとう、と言葉には出さず、蔵馬は思った。
張り詰めていたものが少し緩んだ。今の自分には、魔界の空は深過ぎる。

トーナメントなんて、誰が考えただろう。
驚きと、直後広がっていった安心に、一瞬、座り込みそうになった。


「じゃあ、またな」
「うん」
穏やかな笑顔で手を振ると、その部屋には黄泉と蔵馬が残った。
黄泉は、蔵馬よりも少し高い位置から、蔵馬を見た。
黒髪がさらりと流れていたが、なぜか、その柔らかさを感じることが出来た。
「蔵馬」
はっと振り返ると、黄泉は接近していた。
「馴れ馴れしく呼ぶな−っ−」
もう俺はお前の部下ではない、言おうとしたが、ずる、と壁に追い詰められた。
なぜか、逃げられなかった。見上げるだけで感じる何か執拗なものが、蔵馬を追い詰める。
冷たい壁に辿り着いて、蔵馬は両腕に力を入れた。壁に背が、トン、と当たる。
精一杯力を入れて、黄泉を剥がそうとする。
しかし、なぜか思ったほど力が入らなかった。

「俺の、お前への想いは変わらない」
こめかみに手を入れて、蔵馬の髪を梳く。
びくっと反応して、蔵馬が身を捩る。
黒髪はやはり滑らかで、そして妖狐とは違うものを感じた。
耳元の髪を引き寄せ、黄泉はそれに口付けをした。
「蔵馬」
やけにゆっくりな言葉で、蔵馬は鼓動が跳ね上がるのを感じた。
黄泉が、す、ともう一歩近づくと、自分のガッ、と爪が壁に当たるのを感じた。
髪から手を離すと、黄泉は耳元に近づいて、小さく囁いた。

「昔も今も、お前が好きだよ」
「−−っ!」
体の奥底まで染み渡るような、低くそしてねちっこい言葉だった。
その時、一瞬黄泉に隙が生まれた。

「−!蔵馬!」
ハッと、それを感じて蔵馬は黄泉を突き飛ばした。
後ろを振り返らずに、そのまま部屋を出る。バタン、と大きな音を立てて扉が閉まった。

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嫌だ、ただそのひと言が、頭を駆け巡る。触れられること、だけではなく。
その奥にある、締め付けてくるような視線が、嫌だ。
見えてはいない筈なのに、知らない間に身体に入り込まれて奥から鷲掴みされていく
ような苦しさがあった。


「はあ、はあ・・・」
走って走って、蔵馬はいつの間にか南野秀一の部屋にいた。

長い長い道をずっと走っていたような気もするが、それはただ、高揚した気持ちで
何かに向かって走るのとは違う。
−逃げている感じ。そう、逃げている感じだった。

何から、−−何から。
そんなこと、考えたくも無かった。逃げている、それは解っても、止まりたくなかった。

もがいて逃げているような、気持ち。



明るくする気持ちは起きなくて、そのまま部屋の隅にひざを抱えて座り込む。
今は、暗いほうが、良い。安心するわけでは無いけれど。
そう思って、膝に顔を埋める。
−ああ。ダメなんだ。
解った。−どこまでも追いかけてくるような視線が、自分はダメなのだ。
今更解った。
長い髪が乱れたままなのもそのままに、瞳を閉じて観る。
すると−−その中で、思考の中で、自分の姿が揺れていた。揺れている自分の−そして後ろから執拗な視線を
感じた。
強い力を持ったそれを感じて振り向くと−−

『鴉!』
ふわりと揺れて、鴉が微笑んでいた。そしてその姿は黄泉になり−−
『−−!』
あの人の名を呼んだ所で、はっと我に返った。


−ああ、と思った。
会いたい。会いたい。
ただ、会いたい。その名が零れ落ちそうになったその時ー

「呼んだか」
「−−!」


「ひ、えい」
久方ぶりに見る蔵馬の顔は、あまりにも予想外で−予想外という言葉以外に飛影の頭には
何も浮かばなかった。

こんな表情を−していただろうか。
飛影は言葉をなくし、蔵馬を見詰めた。

  人間界に来たのは気まぐれだったが、そこからが、今日は違っていた。
  形の定まらないもののようにゆらゆらしたモノを感じ、焦りにも似た気持ちで
、   屋根を駆けてきた。


不意に現れた人に、言葉をなくしたのは蔵馬も同じだった。不意打ち過ぎて、一瞬で喉が
からからに渇いてきた。


蔵馬はほんの僅かに飛影を見上げて、立ち上がった。
「電気、つけますね」
部屋の隅まで行くだけなのに、やけにゆっくりと見えた。
じっと蔵馬を見ていた飛影を、言いようの無いもどかしさが襲った。
パチンと音がして、光が広がる一瞬前・・・
「−−」
何かに怯えるように蔵馬の瞳が揺れた。


「くら、ま?」
自分が知っている蔵馬は、こんな風だっただろうか。
遠いものを見るように、飛影は蔵馬を見た。

丸く澄んだ瞳は何度か揺れて、そして飛影を見詰めた。上手く形にならない、モノを秘めて。

「あの…」
何か、食べますか、といつものように言おうとして、そこから先は空に舞った。 「−どうしたんです、か」


その言い方に、飛影は驚いて、蔵馬に近づくことが出来なかった。
ここに飛影がいることが不思議で堪らない、そんな言い方。
どうしたと、言われても、正直、返す言葉は無かった。


「来ては、いけないか」
怒りでもなく、淡々と聞いてみた。この不安定な感じは、一体なんだ?
「そんなこと−」
無い。だけど、余りにも不意打ちで、どんな顔をして飛影と対峙すればいいか、わからない。

ただ、ただ−−


「−っ!」
次の瞬間、飛影がよろけた。ただ、鍛えている身体は蔵馬のふわりとした感触を吸収するように受け止めて
堪えた。



前に会った時よりも逞しくなったからだが、それを受け止めた。

飛影の筋肉にふわ、と入り込んできた蔵馬は、同じ生き物には
思えなかった。
−蔵馬は、飛影に抱きついていた。


これもまた予想外の行動に、一瞬押されかけた飛影が蔵馬を受け止めて腕に収める。

柔らかい感触が、直に飛影の腕に伝わる。唐突な行動に、飛影はされるがままだったが、
直ぐに気づいた。
−震えている。小さく震えているのは指先だけだった。


強がりの中の繊細さが、そこだけに伺えた。

Foxyの乃亜さんリクエストの「お風呂で・・・」のお題の小説です。
まだ、1です。お風呂で、と言うだけで結構話が広がりました。
飛影に救いを求める蔵馬、の話。
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