理 想 論 


ざあ、と音が聞こえる。
パタンと音がして、去っていったことを感じた。


白い毛布の中で、ただその黒髪が僅かに動いた。
分からない、 どこをどうやって歩いてきたのか分からない。
…走ってきたのかもしれない。



ざあ、と言う音がまだ続いていて、そのまま蔵馬はそこにいた…霊界の深い森の奥。
待ち合わせに何度も使った、大きな樹の下でしゃがみこむ、…霊界にも
雨はあるらしい。
どうでもいいことを、どこか冷めた心がそう呟く。
くす…
そんなことを考えて居る自分が滑稽だった。


ふる、と肩が震える。
長い髪が張りついて、そばに広がる湖に自分が移る。
…滑稽だ。
水に映る自分はきえそうな表情をしていて、女のように戸惑った色を落としていた。
悲しいのか切ないのか分からない、何ともいえない表情を、水を通して蔵馬は自覚した。
大きな瞳が揺れている…その中には感情があると言うよりも、混ざり合った心の底の
隙間にある、言葉に出来ない部分が集まって形作っている…そんな気がした。
自分でも表現出来ない。

涙は、流れそうで流れなかった。



なに、これ…
涙を湛えた瞳を見て、自分であざ笑う。
おかしかった。
意味が分からない…何を泣いて居るんだ。可哀相な自分を嘲る声が、耳元から聞こえた。



余りにも遠くにいるはずだった王子様は、余りにも予想外にそばで触れられる人であってしまった、
こんな筈ではなかった。
こんな風に傾いていくはずではなかった。
気付けば引力に導かれていた。
ベッドの中でのその人は優しかった。
何度か霊界の森で待ち合わせをした。合う度に髪を撫でて、ベッドにもつれ込んだ。



ベッドの中での微笑みは静かに胸の中を満たして、そしてそのうち蔵馬の身体に熱を
植え付けた。


…一度感じたらまた酔ってしまう熱さを。


指を絡ませてひとつだけ約束をさせられた。
…こちらから連絡をするからそちらからはするなと。
考える暇もなく、射貫かれるように瞳が絡み、頷いていた。
一方通行の、恋でも愛でもない、甘い関係。苦い関係。


一度だけ気まぐれでつけてみた香水に、”良い香りだ”と王子様は言った。
…その髪に口づけて。
首筋に鼻を寄せて。



この香りが好きだ、と言われた。

しつこくないようにつけるようになった香水を、どう思われたのか、それを考えたくはない。


何故だろう、何故だろう。
色々なことが頭を回る。ベッドの中でしか成立しない関係の中、吐息が絡むほど近づいて
見せてくれた微笑みが回る。
何故…。



それは唐突だった。
”儂はおぬしにはふさわしくない”
その一言で――しかも思い切り放出をした後で――身体を離しながら投げられた言葉。

済まなそうに眉を寄せて、下を向いて、蔵馬の肩に触れて、そして少しずつ
身体を離し―――。


待って、と身体を起こしたときには王子様の身体がベッドから完全に離れ、扉に向かって

いた。


ぱりん、と香水のビンが割れた音がして―もう王子様は居なかった。
むなしい香りが広がる。



どう言うつもりだったのか、なんだったのか。何故なのか。
追求しようとする自分が滑稽で、はは、と笑いが漏れた
。 湖に、笑いを零す自分が写る。―さっきよりも、ずっとリアルな自分が居る気がした。
ははは―――
喉の奥が乾く。
「ふっふふ」
馬鹿じゃないのか。
分かっている癖に。分かっている癖に。


冷静な表情を作ってみる。口の端がひきつっている。睫毛がひくひくとなり、瞳を静止して
表情を作れない。日常の自分を意識するというのはこんなに難しいことだったのか。
「くく―あはは」
鮮やかに響いていた笑い声にも乾きが混ざり始める。



分かっている、季節は過ぎ去った。
枯れ葉をいつまでも追い続けているだけ。


下らない。


潤ませている瞳が、下らない。

ふと、上半身の服が雨を吸い込んで重くなったのを感じた。
「あがらなければ、いい―――」
このまま濡らしてくれればいい。今はその方が良い。

それを、今は望む。


待って、と言った一瞬後に視線が絡んだけれど、王子様は苦しそうな瞳をしただけで
消えた。


―――卑怯者。



―――真実を、たたきつけて欲しかった。


まだやまない雨に、このまま濡れ続けていたい。


水樹奈々ちゃん 理想論という曲のイメージです。
色々な複雑な気持ちを描きたかったのです。
救われない、だけどそのなかの気持ちを描きたかった。
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