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切望は甘さにも似た迸りU

切望は甘さにも似た迸りU

夜の帳が空を包み、鳥も静まった頃…一つの気配…。
音もなく忍び込む…その影。

たったひとつの場所を目指し只走る。月の光もその姿を捉えることは出来ない。
一瞬だけ光を放つ影が、その人のたった一つの気配。
気付いた頃には消えている…どこか遠くへ。


人間界はもう寝静まる時間…皆が疲れを癒やす時間。
音もなく、影は小さな窓の中へ飛び降りた。生暖かい風がわずかに開いた
窓から入る。この時期、夜の風は心地良いのだ。
黒衣を靡かせて、影はスッと、少年の部屋へ入り込んだ。
覚えのある…初めて会ったとき、自分がここに担ぎ込まれた部屋。
あの時氷のようだった心に響いた高い声が、今こんなに後悔になっている。
燃やし尽くしてしまいたかった。
人間ごときを庇い自分の前に飛び出した奴を。まさかあんなことになるなんて
思っていなかった…自分の甘さに、今更舌打ちしか出来ない。


闇を裂く音に、その人は目を見開いた。

「飛影」
チッと言いながら、飛影は目覚めた人に大して驚きもせず剣を向けた。

「っ…」
目を開く一瞬の間に裂かれたシャツ…。肩から流れる血を、蔵馬は右手で押さえた。
「俺を野放しにして、後悔させてやる」
多分飛影が降りたつ頃には気づいていたはず…なぜ避けなかった。
蔵馬は、深い碧の瞳で、こちらを見てきた。
「剣を…収めて…っ…」
ポタ、と落ちた血が、絨毯に染みた。
「言え、なぜ俺に干渉する」
蔵馬の顎をとると、吸い込まれそうな瞳にぶつかった。油断してはいけない…
きつねと言う存在は、簡単に信じてしまってはいけないのだ。
「あなたがっ…」
ぼんやりとしていた視界が開け、蔵馬の瞳には憎悪にも似た熱を帯びた
飛影の瞳が映った。
はっとした。独房での飛影の、戸惑いと怒りと…言葉に出来ない迷いを纏う妖気。
迷っている…蔵馬は思った…飛影は迷っている。蔵馬に向けるものは殺意か尋問か。
…あなたがと言い返しかけて、蔵馬は口をつぐんだ。
何故干渉する。


あの時、初めて会ったとき飛影は焦った瞳をしていた、身体中全ての妖気が
焦りで満ちていた。焦りは欲だ。欲が心を急かしてそして…暴走させる。
目的を果たさないうちに。

雷に打たれたような出会いに…蔵馬は飛影を抱えて手当てをした。

飛影。その名が忘れられなかった。

なぜ干渉する。その問いに、返す言葉が分からない。
何を言えばいい。
こんなに、正しい言葉が出ないことはなかった。
「言ったでしょう…未来がある」
誰にも消されない未来。
「何を、企んでいる」
小さく、飛影は言った。
未来がある。蔵馬の言葉は妙にむずがゆく飛影に響いた。けれど捜し物は
蔵馬に…蔵馬の未来には関係ないはずだ。飛影の未来が蔵馬の何だというのだ。
苛立ちが沸き立いて、飛影は蔵馬を睨んでいた。
「妖狐…蔵馬」
ぴくっと、
蔵馬は肩を震わせた。
「名を馳せていたな、魔界で。どんな者も騙すという」
蔵馬の髪が、搖れた。

「だから…何ですか」
近くで見れば、本当に整った顔だ…。元の人間の顔かもしれないが、妖狐も
美しかったと言う。怜悧な剣のような瞳…銀の髪…そして、丸さのない、
無駄のない輪郭。
思い出す…まさかと思っていた噂を。

「俺を、何に利用しようとしている」
「えっ…」
さらさらと揺れる銀の髪を想像し、飛影は自らを嗤った。
下らない自分。こんなやつを、一瞬でも気に掛けていたなんて。
初めて会ったときに何故か忘れられない人だった。
けれど。

「…霊界の王子に…抱かれたのか」
固まった蔵馬の、頬が引きつった。想像もしなかった言葉。
「何――言って」
「牢で聴いた。お前だけ、無条件釈放も提案されたそうじゃないか」
蔵馬の顎をとると、飛影は見下すように笑った。
「身体と引換に、俺を取引にしたのか、お前の自由のおまけか」
キツネは何にも化けるという――その事が、数々の歴史の逸話にも残っている。
「騙し心を奪う…お前の手段…」
言いながら胸がおかしな音を立てている。自分の言葉が、自分に突き刺さる…。
何故。なぜあの人間の前に飛び出した。
人間を刺してはいけないからか。それだけか。…自分より…あいつのほうが。
そこまで考えて、飛影は蔵馬を刺すように見つめた。
大事な人間を刺すなと言われたら楽に蔵馬をさげすむことが出来るのに。
もっと…否定されたら。もっと憎しみの言葉が自分から溢れたら楽なのに。
「――っ」
当惑は、蔵馬の瞳から溢れていた。何をどう言えば良いのか、それは――。
飛影から出てくるとは思わなかった嘲りが、痛い。
「…そんなこと…あなたに…関係ない…」
力なく、蔵馬は言葉を落とした。
ぐっと、右手を握りしめる。こんなに、自分の存在が無意味だと感じたことは無かった。
「男妾か……」
はっと、蔵馬は飛影を見た。今度は迷いのない、嫌悪を込めて。

「…バカ!」
妙に整った部屋に、声が響いた。
「そんなんじゃ…ないよ!俺は」
蔵馬の身体を持ち上げれば、簡単に引き裂けそうなシャツが見えた。この奥にある肌に、
霊界のあいつが、触れた!

沈黙が、ただ流れた。

黒髪がただ肩に流れ、蔵馬はやがて小さく口を開いた。
「確かめ…たい?」
ぐっと、シャツの前で両腕を組んだ蔵馬の息が、深くゆっくりだった。
「そう思うなら…知りたい…ですか」





「俺は…」
スッと、蔵馬は銀の切っ先に、触れていた。指先が、剣の切っ先をなぞった。
銀の切っ先はそのまま…蔵馬の首筋へ…唾を飲むだけで赤く切られそうな。
縋れば良いと、一瞬飛影は思った、命乞いでもすれば良い。
「俺を…殺しても…」
何故蔵馬の声が、こんなに大きく響く。飛影の黒衣も搖れた。
「変わらない。霊界には俺たちふたり一組で数えられてる…罪が増えるだけ」
魔界で悪ではなかったことも。
「探しものも…できなくなる」
探しものも…出来なくなる。

「俺は、過去を後悔していない」
強い言い方は、強い瞳と一つになった。
「あなたを守りたい」
蔵馬の視線が、銀の切っ先に向いた。
「あなたを守りたい。守れるなら、俺を殺してもいいよ…」
初めて、飛影は蔵馬の涙を見た。
「あなたを守るためなら、あなたの罪になってもいいよ」
あの人間に協力するか、自分に復讐するか。

カタンと、音がした。
銀の切っ先が、床に落ちた。
「協力…してやる」

腕を伸ばせと、飛影は言った。

伸ばされた腕を捲くりあげたその手が優しかった。

ジワりと…生暖かい舌が…蔵馬の肩を、傷をなめた。
んっ、と妙な声を出しそうになった蔵馬は、身体を引つらせた。
何これ…。
初めて、飛影の一部分に触れられて、染み込む感覚。
黙って傷を舐めてくれている飛影の…斜め下の瞳を見つめられなかった。

守りたくて、誰もが誰かに守られていく。
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