Re: Longing 3

離れた唇を、コエンマは触れることが出来なかった。
蔵馬を追うことも出来なかった。何故か、立ち竦むしか出来なかった。

「そうですね…」
でもね。
本当にお知りになりたければ。探しているのなら。
「俺の心を…捕らえてみれば」
そうしたら、返してあげる。

蔵馬はそう言った。あの指輪は…。コエンマの…気がついたら消えていた指輪。


遠くからでも映える、暗闇では余りに輝きを放ち光になるため、コエンマは滅多に持ち歩いていなかった。
ただ…ただ、蔵馬に会うその時には妙に胸が高まった。
蔵馬に会える…その銀の髪に巻けないように…自分のこころが、蔵馬の銀の光に負けないように、
その指輪は必要だった。

コエンマは、空に手を翳した、明るい空の光はコエンマの茶色の髪を照らす、
そして滑りの良い手入れのされた指を、コエンマの瞳に映した。
…この指に…ハマっていた指輪。
蔵馬のものでもない、自分は。蔵馬は自分のものではない。
蔵馬との約束の指輪でもない。そんな、蔵馬との関係に関わるロマンチックなもので
はない。なのに何故…。
もっと、はぐらかされるかと、思った。蔵馬はあの指輪あのことなど、知らないと
いうかと…。
その方が、マシだった。

分からない。
蔵馬が人間の純愛のようにコエンマを…恋慕していると言うことは考えられなかった。

「コエンマ様…?」
ハッとした。立ち尽くすコエンマを不審げに見ているのは、門番だった。
「いや…何でもない」

部屋に戻ると、コエンマは窓を開けた。
妙に爽やかな風が、霊界の宮殿の庭を通り過ぎた。…今の自分には、似合わない、
普段吹いている綺麗な風。こんなに、穏やかで優しいものだったなんて、今更気付いた。
霊界は…風でさえも穏やかで柔らかいものなのか。
蔵馬のいる魔界とは、こんなにも違うのか。


蔵馬と過ごした時間のことを、思い出す。
焼いた魚にかぶりついた自分を、まだ熱いのにと言って笑った妖狐。
川の水を手で掬って飲むことさえ、知らなかった自分を、連れ出してくれたのも妖狐
だった。
知らない世界…。
突然の雨に、慌てるコエンマを見て、この雨は直ぐにやむ雨だと言って、洞窟の中で歌を
歌っていた妖狐。
何がそんなに余裕なのかと訊いたら、どうせ直ぐやむのだから待ってれば良いじゃないかと言った。
…そんな、雨の流れのことさえもコエンマは知らなかった。

抱いたときにコエンマが突き刺すように入れて、蔵馬は艶やかに銀髪を揺らしたこと。
コエンマのものを咥えて…妖狐はじっとコエンマの事を見上げていた。くっと笑って…。
「声…あげてもいいんだぞ」
咥えたくせに、膨らんだコエンマのものを入れろと、欲しいと強請ってきたのは蔵馬だった。

甘い記憶と言って良いのか分からない。
ただ…あの蔵馬が今霊界の監視下で生きている。どうしたって蔵馬は罪人で…その面では
コエンマの方が立場は上だった。
だから…蔵馬の暮らしを盗撮することも、部屋に勝手に入ることも出来る立場なのだ。

「俺の心を…捕らえてみれば」
そうしたら、返してあげる。

どう言う意味なのか。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥

「コエンマ…さまっ」

蔵馬のからだが、強く押し当てられた。
バサッと…白い紙が広い絨毯の上に、散らばっていく。積み上げられていたそれは、
百合の紋章の絨毯の上に、重なっていた。
制服のシャツのボタンが、飛び散った。

「なぜ…なぜまた現れた」

学校の帰り…呼び出された蔵馬は、強く引かれた手に、抵抗も出来なかった。
あまりにも不意で…。

「なにするっ…」
まさぐるコエンマの手を、蔵馬は押し返した。薄い胸は薄桃に色づいて、まだ成熟して
いないのは身体もなのかと…一瞬コエンマは冷静になった。蔵馬の顔を見て身体を見た
だけで、こんなにも全身がざわざつくと言うのに。

この身体のどこかに…指輪はある。
そんな気がした…。

「俺を…どうしたいんですかっ…」
はあはあと、荒い息をして蔵馬は思い切りコエンマの身体を突き飛ばした。
重ねようとした唇が、僅かに離れていく…。

「ちっ…」
舌打ちをしたのはコエンマだった。けれど、笑っていたのは蔵馬だった。

「やはり…力尽くでは駄目か」
「何、しているんですか。…俺を…支配することは出来ませんよ」
侵食は許さない…蔵馬は、妙に熱の籠もった瞳でコエンマを見つめた。黒髪の奥に見える…
気高い妖狐の銀と黒の混ざり合う瞳。
シャツを整えて、蔵馬は身体を起こした。
「…そこにはありませんよ…」
耳元の髪を揺らして、蔵馬は小さく笑った…嘲りかと、一瞬コエンマは思った。けれど、
そうではなかった。
哀れむような…優しさのような。

「なぜ…あの指輪は…」
「あれほど高価な指輪…俺が…欲しくないはずないでしょ」
蔵馬は、試すように笑った、妖狐は盗賊…。

知っている。霊界でも、王族ほどの財産があるものしか手に入れられない、高価な指輪。
コエンマが、妖狐に会うときだけ持ってきていることを、蔵馬は知っていた。
普段コエンマが持ち歩いていなかったことも。
なぜわざわざ高い指輪を魔界まで嵌めてくるのかはわからないけれど…。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥


この指輪…。
コエンマと出会って肌を重ねて、初めて見たときから、蔵馬の瞳を吸い付けて離さ
なかった指輪。
妖狐の身体中を、電流が走ったように震わせた…。
コエンマが眠っている間に、指輪を舐めてみた。その指輪を嵌めている…コエンマの
白く…男の強さを持ち合わせている関節の力強さを…感じた。
ああ…この指が自分のからだをまさぐって、この指に翻弄されて…コエンマからだが…
妖狐を貫いたんだと…。

蔵馬は、指輪に…頬を寄せていた。
指輪の気高さにふさわしい、陶器のような指…すべらかで優しげな瞳…。


この指輪はコエンマの象徴のような光だ。

知っている。妖狐の頃、霊界に忍び込んだことだってある。
コエンマのいる世界はどんなものかと思い、忍び込んだのだ。


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「だからこの件は…保留にしなくてはいけない」
コエンマの声がした。
けれど、と詰め寄る大臣の声がした。
けれど、我々の仕事にはこの子会社の施設が必要です…、任務の効率化が進められない
のであれば人員を増やすしか無い、あなたには実際に任務に当たる側の事情が
分かっていない…
早口で捲し立てる声が聞こえてきた。
我々だってコエンマ様の考えは分かりますが、実務の部署から要望が上がっています、
それを無視は出来ない、我々の責任では無いんです。


大臣の帰った部屋で、コエンマが頭を抱えていたのを、見た。
別の書類を片手に、それを見ているうちに、矛盾点に気付いて溜息を吐くコエンマを見た。




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上の者には上の者の苦しみがあり、下からの突き上げもある。
その下には下の事情があり…コエンマは霊界の頂点にありながら、独裁者ではない。

けれど…それを癒やそうという、そういう優しい生き物ではなかった、妖狐は。
ただ…泣けば良いと思った。
そんなに苦しくて心を…心の糸を絡まったままでしか居られないなら…泣けば良いと
思った。
泣いたら抱きしめてやる。
泣かないならそのままだ…。
食いしばって生きていける…まだ…。
逃げ出すなら逃げてもいい。誰も責めたりはしない。逃げて、けれど立ち向かわなければ
いけないものは、また向き合うしかない。

…コエンマの…宿命なのだ。

そして…強さと苦しみを持って一人で生きていかなくてはいけないのも、妖狐の…
魔界に生きている者の生き方なのだ。

それが、交わった。
だから…求めるなら抱きしめてやる。

まだ…求めないならそれでいい。

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だって、生き物は皆苦しみの中で生きている。誰かが抱きしめてやればいいけれど、
それは抱きしめてる側が奉仕するほど…心底優しい人間である場合だけなのだ。
妖狐は…生きる世界が違う…。

もっと。強くなるまで…自分はコエンマのものには…なれない。
きっと…コエンマが強くなっても、妖狐は他人のものにはならない。けれど、待っている。

指輪の輝きは…コエンマの…心の奥底のきらめきに似ている。
綺麗な指輪は、綺麗すぎて…似ているだけで…コエンマに心はないけれど。
綺麗なだけの指輪であってはほしくない。




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「何ですか」

機嫌が悪いわけでもなく、ただ淡々と、呼び出された蔵馬は返した。
コエンマの執務室…。


「母親の具合はどうだ」
と、蔵馬をわざわざ呼び出した自分のその衝動も、一言では分からない。

「おかげさまで、安定しています。街も、おかしな奴はうろつくことはなくなりましたよ」

感謝します、と蔵馬は言った。どこまで本当か分からないが、頭を下げてきた…。

「それだけですか」

病院の様子を細かく話し…蔵馬は背を向けた。

「蔵馬っ!」

はっと、声を出した。けれど振り向いた蔵馬に何を言えば良いのか分からず。
「そうか」
と返すのが精一杯で。

腕を引っ張りそうになり――しかしその手を戻した。
こんな風にしたいわけじゃない。

感情のない目でコエンマを見ていた蔵馬は、小さく笑った。悪戯っぽく。


「返して…あげますよ」

乾き始めたコエンマの唇に、細く白い指が、触れた。
妙に暖かい蔵馬の人差し指はコエンマの、血の色を失いかけた唇をなぞった。

「あと少し…あなたが俺の心を…盗んでくれるまで、あの指輪…持っています」

あなたが大人になったら…妖狐のころの心ごと…指輪も…あなたに渡してあげる。
強く、蔵馬の唇が重なった。

「続きは……あの霊界探偵を…助けてからね」

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