誘惑をはねつけて
1 誰かのためにトゲを刺すのか
意識が、消えていくのが自分でも分かった。
遠く、飛影が見えた。
「蔵馬選手!…」
審判の声が聞こえる音が、小さくなっていく。
全ての音が遠くて。
怒られるかなと、少し思う。
伏せられていく瞼の奥に…飛影が見えた。
飛影の、燃える眼差し。
胸を突く痛みが、初めて甘さに変わった。
怒って、くれている。自分の、ために。
撃とうとしてくれている…。
飛影が、自分のために。
それが、身体中がシマネキ草で痛みを響かせる今でも、
なぜか甘かった。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥
扉の向こうに、蔵馬の声がした。
うっと、小さく唸っているのが分かる。
この扉たった一つが、厚く思えた。どうしたって、今自分にできる
ことは、今はなくて。
息を潜めて、飛影はただ壁によりかかった。
無力だ。
…右腕を見つめる瞳に、渋い光が宿った。
こんな気持ちは初めてだ。
雪菜を探しているときでさえ…あの救出の時でさえ、
こんな苦しい気持ちはなかった。
どうしようもない苦しさを、初めて飛影は認めるしかなかった。
気に入らないのは、それよりも…。
蔵馬が、なぜあそこまでしなくてはいけなかったのか。
ふる、と飛影は頭を振った。
息が、苦しい。こんな、たかが一人の相手に後悔を感じるなんて。
「あっ…」
荒い息が、扉の向こうから、聞こえた。
今、力を全て分け与えることはできないことではない、けれど…。
それでは蔵馬が闘った意味が…。
自分は何もできない。
無力さに、飛影は腕を下ろした。
そして、扉から離れた。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━
蔵馬に、触れられたのはそれから何時間か経った頃…。
月も姿を潜め、沈黙だけが広がる、蔵馬との部屋。
武術会の喧噪も、冷やかしも今は何も聞こえない。
ざわざわと掠れる木々の音だけが、少しだけ開いた窓から
聞こえた。
部屋の中に音がない分、呼吸が大きく聞こえた。
青白い顔をして眠る蔵馬の、その鼓動が飛影の中の唯一の安らぎで。
近づく気持ちになれなくて…でも、そっと、手を伸ばす。
「…くら、ま」
名を呼べば声が返ってくる気がした。
本当に、撃とうと思ったのだ。あの時。
いつの間にか蔵馬から離れられない自分がいた。
薄明かりの下の蔵馬は消えそうで。
「んっ…」
上下する胸の、その動きにあわせるように、指がシャツの上をなぞった。
肌の温もりが、痛いほどだった。
腕をなぞれば、脆さが分かる。
同時に、この今生きている事実も脆く消えそうで。
何も、飛影は言わなかった。
ただ…ただ、堪らなくて。
そっと、唇を重ねた。
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